I新聞の日曜版、花園再び


この年の初め、しばらくぶりで水戸在住の編集者Sさんからイラストマップの仕事依頼が来たが、そのギャラは以前にもまして驚くほど低額で、とても現地取材して時間をかけられるような金額ではないのだった。ところが、Sさんは地元紙『I新聞』の新規日曜版に連載をもつ話が来ているらしく、そのイラストレーターに僕を起用したいというので、そのからみもあって引き受け、現地取材もこなしながら、なんとか作品を描き上げた。その経緯はブログにも書いた。

▼打ち合わせ
「笠間と結城」2006/1/8

▼取材
「筑波山』2006/1/19
「ひたち野」2006/1/20
「霞ヶ浦は今」2006/2/14
「土浦のカワセミ」2006/2/15

▼制作
「イラストマップ仕事中」2006/2/8
「仕事中」2006/3/15
「マップ完成」2006/3/20

I新聞社は今年の春、「食、健康の新提案をする」というふれこみで日曜版を新設したのだ。4頁・オールカラーというから、これは極めて重要な、いわば社運をかけた展開といっていいだろう。そのカラーページにSさんが連載を持つということは、これまで仕事をコラボレートした者として、実に喜ばしいことだった。僕にとっても故郷の地元紙でイラストマップを連載するという、願ってもないチャンスがやってきたわけだ。

ところが、先の県南のイラストマップ仕事をやっている途中で、新聞連載についてのSさんの言い回しがおかしなことになってきた。「仕事時間に余裕がないので、連載の最初は、以前やった仕事のマップを流用して、大内さんにはその修正をお願いすることになると思う」「版権についてもクライアントに交渉した」などと言う。そしてさらに「毎週連載はきついので隔週にしてもらった」と言い出す始末である。

それにしても、新聞社が新たに日曜版を刷新するという企画に「流用したイラスト」を用い、しかも制作者としての僕に一言も連絡がない、ということがありえるのだろうか? Sさんに問うたところ「大内さんのネームやプロフィールはもちろん紹介します。でも、今回の企画は流れるかもしれない、私はやれる自信がなくなってきた」というような話を聞かされたのだ。

いったいどうなっているのだ? I新聞社のwebを調べてみると、「社長からのメッセージ/節目の年に決意新た 紙面変える斬新な挑戦」という一文に出会う。どうやら企画は本当らしい。しかしすでに3月、これだけのプロジェクトなら新聞社から僕宛に直接連絡がなぜないのだろうか? そこで新聞社に直接メールで問い合わせてみた。

すると企画部からすぐに電話が入り「大内さんのご活躍はよく存じておりますが、企画そのものがまだ固まっておらず、イラストレータの人選が決まり次第、大内さんにお願いするときには、あらためてご連絡いたします」と。

イヤな予感がした。ようするにSさんは「新聞連載」という虚偽のニンジンをぶら下げて、安い値段でマップ仕事をかすめ取ろうというわけか? 考えてみれば、これまで僕はSさんの編集工房の仕事の中で、僕自身のネームを入れてもらったことが一度もないのである。初回の水郡線マップのとき、サインだけでも入れようと思ったが、「サインを入れると大内さん一人の作品になってしまうから入れないでほしい」というようなことを言われたのだ。

Sさんとのつきあいは9年ほど前からで、『Outdoor』誌(山と溪谷社)に描いた仕事をみて仕事依頼の電話をしてきたことに始まる。それ以降、『水郡線で旅する/街道絵図・久慈川散歩』『水郡線で行く、カントリーウォーク』(いずれも、水郡線活性化対策研究会発行)など茨城県内のイラストマップを描いてきた。また奥久慈の漆について描いた『奥久慈漆通信』や『奥久慈森の通信』にもイラストを描いた。

イラストマップは、デザイン、レイアウト、コピー、動植物のカットの選択など、内容のほとんどが僕のアイデアによる。それを現地取材で確認するという作業を行なっており(取材は自費)、非常に手のかかる仕事であり、いつだって金額的には苦しい。それでも頑張ってきたのは、生まれ故郷の自然と風土文化を保全し、再創造していきたいと思っているからだ。Sさんもそういう「思いがある編集者」だと感じたからこれまで協力を惜しまなかったのだ。

怒りがこみ上げてきた。が、すでに手を染めている県南のマップは中途半端な仕事をしたくない。どうせならいつもよりさらに完成度の高い濃密な作品に仕上げ、各イラストマップの中に「MASANOBU」とサインを入れることにした。そして、この仕事に見合う最低限のギャラを支払うようSさんに直談判した。今回は別のデザイン会社が仲介に入っており、Sさんはそれをクッションにして値段交渉を逃げていたが、今回ばかりは絶対に引けなかった。

結局、イラストマップのギャラは、ほぼ僕の請求通り支払われた。しかしその後、Sさんからの連絡はまったく無い。今回の仕事に対するお礼や詫びも、新聞連載についての話しも(そして新聞社からの連絡も来ない)。

I新聞の日曜版が出始めた頃、茨城の古河まで車をとばし、市立図書館でバックナンバーを調べてみた(日記参照)。するとSさんのペンネームによる連載が始まっており、イラストは「茨城の自然と風土文化を保全し、再創造していく」にはあまりにも弱い、ポップで意味不明なものが使われている。とりあえずコピーを取り、アトリエに戻った。

そして昨日、ふたたび古河の図書館で連載を追ってみた。すると、途中でもう一人別のイラストレーターが起用されているのだった。その人はもともとCGが達者な人のようで、HPも持っているようだ。が、イラストマップに精通しているとはとうてい思えない作風だった。しかも、僕が過去に創った作品を真似ているふしも見受けられる。

今回のイラストマップの打ち合わせから制作まで、一部始終みている相方のYKは、その連載をみて激怒していた。が、僕は怒りというよりも心が冷えきってしまった。Sさんの文書にしても、知識のパッチワークのようであり、僕の心には響いてこなかった。

Sさんとの最も重要な仕事となった『水郡線で旅する/街道絵図・久慈川散歩』は、当時JR水郡線に蒸気機関車を走らせるイベントの車内で、無料配布された。その絵地図の中に作者の僕の名前はいっさい入っていないのだが、偶然その車内に家族で乗り合わせたという小中学校時代の旧友から、唐突に手紙を貰ったことがある。作品への感動と供に「この仕事をやるのは貴方をおいて他にいないと思いました」と書かれていたのが嬉しかった。

その夜は、実家のある水戸に泊まり、朝方、新聞連載がかなえば最も喜んでくれたであろう母にことの経緯を話した。

その足で僕の創作の原点、イラストマップの原点でもある県北の花園山へ車を走らせた。そして「山の神」の社にお礼を言い、これまでの報告をし、そして再び誓いを立てた。

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この日アトリエに戻る道すがら、ちょうど久慈川沿いの福島・茨城県境で、コペンの距離計が3万キロを越えた。


追記:古河の図書館で新聞コピーをとった後、つくば市のつくばエクスプレス始発駅まで行き、今回のイラストマップ(正式名称は『ぐるっと筑波めぐり 里山あるき 歴史の街散策』発行年月2006年3月)をつくば駅構内で探してみたが、どこにも置いていなかった。この冊子はもともと県が発注したものだが、発行の肩書きは「つくば周辺地域交流活性化実行委員会」となっている。webで調べてみると、この団体は「茨城県と、筑波山周辺の八市町村、関東鉄道で構成」されているらしい。マップは秋葉原駅と筑波駅で無料で配布されると聞いていたので、ご興味のある方は茨城県に問い合わせ、ぜひ入手して、この中に掲載されている僕の6点のマップを見てほしい。そして茨城新聞の日曜版(webからPDFファイルを入手できる)と見比べてほしい。

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その経緯から想像するに、この仕事は県の年度末予算消化の仕事だったのだろう。こうして力を込めた絵地図がまた泡のように消えていく。そして、作者のネームが入っていないことをいいことに、こちらの血のにじむような努力が簡単に盗まれる。それでも今回は原画が手元に残っただけいいというべきか。『水郡線で旅する/街道絵図・久慈川散歩』の原画は僕の元に返却されておらず、いまだに行方がわからないのだから・・・。


コメント

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