中野純 『月で遊ぶ』(アスペクト2004)の挿画である。著者の中野さんは、東京の日の出町在住時代、近所に住む友人だった。きりんかんだよりシリーズの僕の絵を気に入ってくれ、挿画を頼まれたのである。山暮らしを始めようかと東京都と群馬を行き来しながら準備していた頃であった。
中野さんは僕にいい挿画を書かせるべく、闇夜歩きのイベントに誘ってくれたり、一緒に奥多摩に月虹を見に行ったりした。闇を歩くというのは実に新鮮な体験だった。本に載せた挿画アップするとともに、その時の体験を日記に書いたものをここに転載する。
以前、”ランプの明りだけで民話を読む”というワークショップに参加したことがあるのだが、
それに非常に感銘を受けた経験があるのだ。明りを消して、
小さなともしびを囲むだけで濃密な空間が生まれるのである。そして、会が終わって、
蛍光灯が灯されたときの、あのなんとも無味乾燥な「寂しい輝き」がけっこう衝撃だった。
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闇の中に身を置くと、五感が研ぎすまされ、なんだか癒される感じがする。
僕が以前、山小屋のバイトに惹かれたり(石油ランプの明りが大好きであった)、
山岳での単独のキャンプにはまったのは、この柔らかな明りの魅力もあったのだ。
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人工的な明りのない山道に2時間も身をおいたあとで、林道に初めて街灯を発見したとき、
その明りが妙になまめかしく見え、線路を通過していった電車の蛍光灯の流れが、
なにかこの世のものとは思われないシュールな感じを連れてきた。
新たな視覚を獲得したような、空間感覚が鋭敏になったような感じがしたものである。
しかし、五日市駅近くの住宅地に入ると、その感覚も薄れていき、
駅前の煌々と照る明りの前で、僕はもとのフツウの人に戻っていった。
( 2003.11.5)
「オオウチさん、月虹みれそうないい滝を知りませんか?」
中野さんにそう問われて僕は
「奥多摩の川乗谷にある”百尋の滝”がいい」と答えた。
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登山道は川からかなり高い位置を歩く場所もあり、岩場もあり、
木橋もあり、というコースで、闇が迫るとなれば、けっこう緊張させられる。
しばらくして暗くなり、各自ライトを手に歩く。
ようやく滝に着いたのは5時を過ぎた頃。眼前に大きな白い水筋が見える。
飛沫も飛んでくる。しかし肝心の月は上がっていない。
それに曇空なのであった。
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ともあれ月の登場を待つしかない。
焚火を起こし、Sさんに野菜切りを手伝ってもらい、
けんちん汁にとりかる。沢水で小麦粉を練り、すいとんのベースをつくっておく。
今回は煮干も使わない。まず根菜を油でいためて水を注ぎ、醤油も少し入れてから焚火で
煮はじめる(醤油を最初に少し入れておくと煮崩れしにくい)。
沸騰したら火からやや外してコトコト弱火で煮続け、根菜に火が通ったらキノコ(奥多摩の駅前で買ったもの)と
白菜とネギを入れ、醤油で味をまとめる。つまり野菜出汁で味付けは醤油のみ、
というもの。これに丸くつくったすいとんを落していく。
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疲れを見せずに林道を颯爽と歩いていたSさんが、突然立ち止まって振り向き、天空を指差した。
われわれの頭上にようやく月が現れたのは、帰り道の林道も半分以上歩いた頃だった。
その月は、鮮やかな美しさを一瞬だけ見せて、すぐに隠れてしまった。
僕はまたしても「月の意思」を感じた。
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帰りはSさんを青梅駅まで送り、中野さんの家の前で次回の取材計画案などを立て、11時過ぎに帰宅した。
軽い足腰の痛みと、焚火の臭いが身体にまとわりついていたが、
久し振りに渓谷歩きをした僕には、それは心地いいものだった。
風呂に入ると、何か山奥の「湯治場」で身体を伸ばしている猟師のような気分になった。
( 2003.12.5)
2008年7月、改題・文庫化
中野純『図解「月夜」の楽しみかた24』(講談社+α文庫)
挿画:大内正伸
デザイン:鈴木成一デザイン室