大内正伸(おおうち・まさのぶ)
イラストレーター・著作家
Tortoise+Lotus sutudio 主宰
Gomyo倶楽部 代表
生まれ育った家と町
茨城県水戸市の市街地で生まれ育つ。実家はクリーニング店。家の前は中学校だった。父はクリーニングの職人で経営者であった。自宅自営で小さな工場(こうば)にいつも使用人がいて、業者やお客さんが頻繁に出入りしていた。夜は客人を迎えて酒宴がひらかれることが多く、母は手早い料理で相手のできる人だった。
父の趣味は狩猟で、主にキジ・ヤマドリ・カモを撃っていた。正月休みは東北に泊まりがけで遠征していた時もある。狭い家にいつも猟犬を飼っており、犬の運動は父の厳命による私の日課であった。私は動物が大好きで、ウサギやカイコを飼ったこともある。幼少の頃、犬小屋で犬と寝ていたことがあったという。父の狩猟には子供の頃何度かお供したことがあり、発砲したところも見たことがある。
狩猟の父の思い出「新・間伐縁起絵巻」(2003,部分)
日立市にある父の実家は農家で、代々庄屋をしていた豪農だった。戦後の農地解放で縮小され、かつての茅葺き民家は火事で消失、私の記憶にあるのは昭和風の木造家屋だったが、田んぼと畑と鶏小屋のあるここに、学校が休みになれば欠かさず長期にわたって泊まりに行き、昆虫採集や近くの海に泳ぎにいった。
母の実家は水戸市末広町(旧馬口労町、新屋敷柳小路)で、祖父は借家の古い木造家屋の中で紳士服の仕立屋──テーラーの下請けをしていた。炭アイロンや足踏みミシンを使う大柄な祖父の姿をよく覚えている。クリーニング店の忙しかった幼少時代はこの家に預けられることが多く(自宅から子供でも歩いていける距離だった)祖母や多数の叔父叔母(母が長女で下に8人いた)に守られて育つ。
旧町名は馬市が立ち馬喰(ばくろう)が多く住んでいたことによる。ミニ動物園のあった谷中の二十三夜尊、画家の中村彝の墓のある祇園寺、天然記念物オハツキイチョウのある水戸八幡宮(安土桃山時代の本殿は国指定重要文化財)などは遊びの行動半径であった。
この家には井戸があり、私が小学生の頃までカマドや薪風呂(半外にありランプを灯して入る)があった。暖には火鉢を使っていた。父の実家よりむしろ昔の暮らしが残っていた。隣に米屋、数件先に豆腐屋や竹細工屋があり、駄菓子屋があった。戦災を逃れた古い町並みが残る昭和の色濃い下町であった。
チョウと魚を追いかけた少年時代
クリーニング店の使用人に屋久島出身のMさんという方がいて、子供心に野外での様々な知識やナイフの使い方に瞠目していた。2008/3の初めての屋久島旅行でMさんの元を訪ねたがすでに鬼籍に入られていた。
昆虫採集や釣りが日常にあった。那珂川や千波湖に自転車で釣りに行った。また汽水域の涸沼川や、大洗港や日立港に海釣りに行くこともあった。淡水ではフナ、ハヤ、ニゴイ、ハゼ、セイゴなどを、海ではアイナメ、カサゴ、カレイ、キス、サヨリなどを釣った。
図鑑を手に様々な昆虫や植物を観察していたが、次第にチョウに魅せられ本格的に標本を作るようになる。当時は水戸市内の自転車で行ける範囲に雑木林やハンノキのある湿地があり、平地性のゼフィルスが豊富に産した。また現在絶滅危惧種になっているクロシジミを水戸市内で採ったこともある。やがて県北の花園山周辺の採集地に到達する。
茨城県北の山地性ゼフィルスが並んだ思い出の標本箱
中学生のときルアー釣りを始めた。時まさに日本のルアー・フライフィッシングの黎明期で、釣り雑誌に情報が出始めた頃であった。開高健の釣りエッセイ『フィッシュ・オン』に多いに刺激された。クローズドフェイスリールで那珂川の中流でスピナーを投げ、ウグイが釣れたときは名状しがたい不思議な感動があった。
近所の釣具店に少しずつルアーが入荷するようになり、釣具屋のオヤジさんに栃木県のダム湖に釣れていってもらい、スプーンでニジマスを釣った。次いでフライもやってみたくなり、道具をひとそろい買いそろえ、父の狩猟の剥製から毛を引き抜いてペンチをバイス代わりに毛針を自作したりした。
生涯を決定づける渓の水色と東北でのキャンプ
茨城県の標高の低い山にも、北部の里山を流れる渓流にヤマメやニジマス(釣り堀からのこぼれマス)がいる。それをルアーで釣りに行った。那珂川や千波湖という濁った水しか知らなかった私は、たちまち渓流の水の美しさに魅了された。アラスカやカナダとまではいかないが、東北のスケールの大きな流れでイワナを釣りたいという夢がふくらんだ。
一方、チョウの採集は県北の花園山周辺で山地性のゼフィルスを採ったことで、自分の中で到達点に来たような感があり、またスギ・ヒノキの人工林とせめぎあう中で衰退する自然の森に、喪失感や渇きを覚えていた。水戸市内のゼフィルスが飛ぶ雑木山がブルドーザーで削り取られ、宅地造成されるのを見たのもこの頃である。この時点で私はチョウの採集をぱったり止めてしまった。
高校生の夏休みを利用して宮城県の北川にキャンプ釣行をした。ここで初めてイワナを釣る。叔父に借りた重いキャンパス地のテントを担いでいき、河原にキャンプを張り、流木の火で飯盒で米を炊いた。生涯の方向を決定づけるような思い出深いキャンプ釣行だった。
高校時代、東北の渓流で初キャンプ、右が私
未知の溪でフライ釣りを開拓する
福島県郡山市の日大工学部でサークルの「釣り同好会」に入る。ところが先輩たちは海釣り派で渓流師がいなかった。そこで私が裏磐梯を中心にルアー・フライの釣り場を開拓し、フライを普及すると、あっという間に会の中はルアー・フライ一色になってしまった。
大学一年の夏に先輩の運転で奥只見の銀山湖に釣りに行った。当時は山に行けば国道も未舗装の悪路で、ガードレールがついていない道が多かった。このとき銀山湖に車ごと転落して、九死に一生を得た。湖底にルアー道具が消えたのがフライフィッシングに転向するきっかけとなった。
一週間後、友人と山形の朝日連峰に出かけた。持っていったのはフライロッド1本だけ。眼鏡も湖に消え、近眼の私はドライフライが認識できない。そこで、ブラックアントを沈めて、けっこうな数のイワナを釣ることができた。ザックはワイルドグースのバックパックを使ったが、他の持ち物はまだまだ軽量化ができておらず、登山道でヘトヘトになった。
フライ釣りに自信をつけた私は、上京して京橋の「つるや釣具店」でハーディのロッドとリールを、バイスほかタイイング道具を揃えた。以後のこのハーディの「トラウトストリーム/7フィート」と「マーキス4#」で東北の溪を釣りまくることになる。
東北の溪をフライで開拓していた頃
美術と建築のこと
父母の家系を見渡しても美術畑の人間はいないのだが、なぜか私だけが絵や造形に強い興味を持っていた。図画工作の成績はいつもよかった。高校時代は美術を第一志望にしていたのだが、第二志望の書道に回されてしまい、結局石膏デッサンなどは一度もやったことがない。ところが書道もやってみるとなかなか面白く、指導の先生に褒められたことがあった。
そんな私の興味を理解していた東京在住の叔母が、小学生の私をよく上野の美術館に連れ出してくれた。レンブラント展とメトロポリタン美術館展を見たことは今でもよく覚えている。中高生の頃、母がタイムライフの世界の巨匠シリーズ全巻を買ってくれ、当時の私の愛読書となった。仏像彫刻がしてみたくて松久朋琳『仏像彫刻のすすめ』を買ったのもこの頃だ(材料が入手困難で実際に彫刻に手を染めることはなかったが)。
母方の実家から歩いてすぐのところに水戸商業高校の洋館があり、一部が市立図書館になっていた(現在は取り壊され高校の敷地の中央にあった玄関をここに移築している)。明治時代の建物で、設計は県内に優れた洋風建築を残した駒杵勤治(こまきね・きんじ)のものだった。
釣りにも虫採りにも飽き、駄菓子屋に行くお金がないときは、ほの暗く深閑としたこの中で、ヴェルヌの『海底2万里』やファラデーの『ロウソクの科学』、ドイルの『シャーロックホームズ』シリーズ、あるいは恐竜や動植物の図鑑などを眺めていた。
若い頃の私は、絵画や彫刻に興味はあっても、建築に惹かれることはほとんどなかった(建築に突然開眼するのは30歳、初めての海外旅行でパリに行ったときだ)。子供の頃に美しい建築や空間を体験した経験が希薄なのである。だから進学のとき建築学科を目指す気持ちが起きなかった。いま思えば唯一の建築体験が駒杵の洋館だったのかもしれない。
駒杵勤治の旧土浦中学校本館(2006)
高山植物に出会う
東北でいい釣りをしたので東京近郊では釣り人も多くてやる気が起きない。そこで山歩きを始める。小田急沿線に住んでいたこともあり、サラリーマン時代には丹沢に何度か登りに行き、一度だけ泊まりがけで南アルプスの鳳凰三山の地蔵岳に登った。美しい沢筋の登山道から展望の良い尾根に出る、自分の足で得るその風景が気に入った。また、高山の独特の植生や静謐な雰囲気に魅了される。
こうしてやがて八ヶ岳の山小屋のバイトに向かうのであるが、もともと私は登山に憧れていて、高校の頃は新田次郎の山岳小説などをよく読んでいたのだ。しかし岩登りや冬山までやる勇気はない。かといって高山植物なんて女々しくてジジ臭いな・・・などと思っていたら、その花々の凛とした孤高の佇まいに、たちまち魅了されしまった。
高山植物のスケッチ(1988,北ア双六岳)
子供の頃から植物の名前がなかなか覚えられなかった。チョウに比べて植物は膨大な種類があり、どこから取り付いていいのか解らないのだ。ところが、高山植物は全体の割に花が大きくて、科の特徴がよく出ている。高山植物を覚えることで、科から見分ける分類に入ることができた。おかげで植物の世界がぐっと身近になったのである。
料理好き
子供の頃は偏食なうえに厳格な父と共にする食事が苦痛でさえあった。しかし食べることに興味がなかったわけではない。大学で親元を離れ自由になり、自分で食べたいものを食べていい境遇になると、がぜん料理に興味がわき、まかない付きの下宿からアパートに変えて頻繁に料理を作り始める(手を加えた袋入りラーメンとか、ミックスベジタブルを使った炒飯・・・といったたわいもないものだが)。
東京でのサラリーマン時代は、料理を楽しむような時間的余裕はなかった。しかし、この時期に金物屋で鉄のフライパンを買った。料理好きの象徴として一生ものの道具を買っておきたかったのだろう(このフライパンは今でも高松の囲炉裏暖炉の家で使っている)。
独身のバイト時代は料理への興味よりも、むしろ金銭的節約のための自炊が必要だった。銭湯や洗濯の合間に買い出しし、夜のうちに米を炊いて夕食と同時に翌日の弁当を作ってしまう。これで外食代を節約できる。今ほどコンビニが充実していなかったこともあるが、当時の職人さんたちは手作り弁当持参が普通だった。
もともと自然志向だが、長女の誕生と丸元淑生との出会いで自然食に開眼する。この変化点が手書きの山岳紀行『南アルプス テントかついで ひとり旅』と『北アルプスのダルマ』の旅の時期に一致する。前者はインスタント食品だらけだが(これは登山者にごく一般的な傾向)、後者は徹底的に自然食・粗食に徹している。実際ハードな長期山行をしてみると食による体調の変化がよくわかるものだ。
美しいもの
英国の「ハーディ」というメーカーのフライ竿とリールを学生時代に購入しずっと使い続けた。「クロサワ」のギター、サンバーストカラ-の「ギクパッカー」は今も現役で活躍している。山暮らしのときに入手したコンパクトオープンカーCOPENはそれらと同列のもの。いずれもクラフトマンの熱い思いと魂が反映されている道具である。
群馬時代に所有していたcopen
山岳写真家、田淵行男の言葉に「美しいものは真実である」というのがある。「真実は美しい」ではなくて「美しいものは真実」なのだ。美しいと思うものは、人によってぶれがあるけれども、たくさんの共通項がある。では、人はなぜそれを美しい感じるのか? それは「神様がそう感じるように人を創った」としか説明できない。
田淵行男と同じように私もチョウの羽根の文様や渓魚や深山から美の直覚を学んだ。クラフトは自然の構造をまねる、そして機能が美を削り出す。しかしアートは人間の意思で創りだすものだ(それゆえ時代の空気を強く反映する)。私は抽象も現代絵画も好きだし、インスタレーションもいい手法だと思っている。
関西エリアに越して、たびたび京都に旅することができるのを嬉しく思っている。美と食に満ち、樹木と水に囲まれ、子供の頃の記憶を呼び覚ましてくれる街なのだ。
美しいもの、私はその感覚を信頼している。その感覚をさらに磨きたいと思っている。
インスタレーション「思い出のゴンパ」(2004,Namche Bazar)