日本酒の思い出


今から40年も前の昔、大学時代は福島県の郡山市にいた。日本大学の工学部が市の郊外にあり、ここに4年間在籍していた。最初はまかない付きの下宿、すぐに自炊できるアパートに移った。イナカにある日大にはまだバンカラというか先輩後輩関係が色濃く残っており、まず下宿の先輩たちに酒でしごかれた。

僕は釣りがしたくて東北の大学ばかりを受験し、そしてたまたま日大に入ったのであり、さっそく「釣り同好会」に入会したのだが、そこには体育会系の人たちが掛け持ちで入っていたりして驚いた。武道系のゴツイ先輩たちが酒席の隣にいたりするのである。というわけで、新入生歓迎コンパからまた酒でしごかれたのであった(笑)。

日大釣り研の頃。無ヒゲでロン毛だった

当時の日本酒はアル添といって、醸造用アルコールに水飴や化学調味料などが添加されたものが主流で、それをお燗で飲まされるのは地獄の苦しみであった。僕は高校時代からオヤジの洋酒を盗み飲みしたり、キャンプのときは河原に嘔吐するほど飲んだことがあるので免疫は十分あったのだが、この日本酒だけは最後まで好きになれず、むしろトラウマとなった。

サラリーマンになって(なんとか4年で卒業し、東京の代々木で2年3ヶ月だけ働いた)出張で秋田に行ったとき、たしか空港のレストランだったと思うが、付き合いで冷たい日本酒を飲んだ。これがフルーティーで香りもちがう。こんな日本酒があるのか・・・と驚いた。

かつて地方の弱小酒蔵が大手に酒を出し、大手は高度成長の波にのって合成酒・三増酒を作ってバンバン売られていた時代が終わりを告げ、地酒ブームが起き、地方の良心的な酒蔵が純米酒や吟醸酒などを作り始める。そんな逆転が少しづつ起き始めた頃だった。

東京在住時代、森林ボランティアをきっかけに西多摩青梅の「澤乃井」小澤酒造との関わりができたこともあって、僕も少しずつ日本酒を飲むようになった。大学時時代を思えば信じられない変化だった。ちなみに当時の小澤社長から直々に仕事をいただいて、小澤酒造一帯のイラストマップを描いたことがある(今でも「きき酒処」に展示されている)。

小澤酒造「きき酒処」へのイラストマップ壁面工事の写真(1997.10)

山暮らし時代も群馬の地酒をいろいろ飲んだ。川場村の永井酒造「水芭蕉」、大間々の近藤酒造「赤城山」などなど。中でも思い出深いのは太田の島岡酒造「群馬泉/淡緑(うすみどり)」だ。友人がわざわざアトリエまで届けてくれ、夏の囲炉裏端で飲んだ思い出は忘れがたい。

旧アトリエで「淡緑」を・・・

四国に引っ越して最初の4年間は高松の街なか暮らしだったので、外飲みによく出かけた。ここでのトピックは愛媛の地酒に遭遇したことだろう。太田和彦の酒旅番組で松山の「蔵元屋」を知り、行ってみたのである。ここで、石鎚山の湧水でつくられる日本酒の数々に感銘を受ける。四国って、酒どころだったのだ!

2014年の暮れ、車遍路の途上で、地元西条のスーパーで「石鎚」の無濾過純米酒に出会い、あまりの美味さに驚き、帰りに蔵元を訪ねて一升瓶を購入した。一般の売り場などない蔵なのだが、社長だか専務だかという人が応対してくれ「この酒にたどり着くのはなかなかのものですよ」と言われた。

まだ今のようなHPもなかったと思うが、前年には国際ワイン品評会日本酒部門で賞を取っていたのだった。しばらくして高松イオンの冷蔵庫に「石鎚」の中瓶が並ぶようになり、時々買いに行っていたが、いつしか棚から消え、高知の「美丈夫」に切り替えた(今年から「美丈夫」も棚から消えてしまった)。

正月飲みに石鎚ほしいなとネットで調べても時すでに遅し、年内配送は無理。それに酒って輸送で揺れたり光に当たると味変わるんだよね。が、高松最大の酒屋「ヒサモト」にダメ元で(しゃれてますがw)で行ってみたら・・・

アタ〜〜〜〜!!!

さあ今年のムロジュンはどんなかな? 同じく西条の伊予賀儀屋のムロジュンも入手したので飲み比べてみようと思います。

今年はコロナのおかげで餅つきを中止にせざるをえない。それが残念。ひとり握り寿しとひとり鍋でちびちびやることにしよ♬


「日本酒の思い出」への2件のフィードバック

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