9時過ぎにホテルを出て浅草橋駅まで歩く。この界隈はイラストレーターになりたての頃、デザイン会社や凸版アイデアセンターに行き来していた時期があるので懐かしい。私にとって修行中の疾風怒濤の時代であった。
秋に八ヶ岳の山小屋のバイトを終えて東京の新たなアパートに戻ると、私は3ヶ月ほど肉体労働のバイトをし、3ヶ月休んではその間に絵やイラストを描き・・ということを繰り返して、売り込み用のポートフォリオ(作品ファイル)を作っていった。
そのアパートは西武新宿線沿線にあり、木造2階建、4畳半でトイレは共同。家賃は月18,000円だった。西日の当たるその部屋で、私はコタツテーブルと電話1台で、フリーランスをスタートさせたのだ。
その頃、大学時代の友人Kがアパートに突然遊びに来て、金のない私を飲みに連れ出すということが度々起きた(Kは私の実家に電話してアパートの住所を聞いたらしい)。新宿のゴールデン街や、六本木で明け方まで飲んだりもした。そんな徹夜明けの帰りだったろうか、Kを誘って「ブリジストン美術館」に足を踏み入れたのは。
ホテルの朝、その美術館が5年の工事を経て「アーティゾン美術館」と名前を変え生まれ変わったことを知った。開館したのがなんと10日ほど前。チケットはネットの予約制で、急いで本日の午前の部を申し込んだ。
ブリジストン美術館(現・アーティゾン美術館)はブリジストンの創業者、石橋正二郎のコレクションで、セザンヌ、モネ、ゴーギャン、ルノアール、といった錚々たる印象派を中心とした洋画から、佐伯祐三、藤島武二、青木繁・・・など日本の近代絵画の名品が常設展示されており、東京駅からほど近い京橋のビルの中に、信じられないような空間が展開されているのだった。
Kと共に初めて足を踏み入れたその館内で、私はピカソの絵の前に釘付けになった。『腕を組んで座るサンタルパンク』という題名のそれは、ピカソの新古典主義時代のもので、キュビズムの実験をひとまず終えた後、イタリア旅行で得たインスピレーションをもとに写実的な表現に戻った時期のものであった。
そのピカソの絵の前で、「俺、画家になろうかな・・・」という言葉がふいに口を突いて出た。それは感動のあまり感極まって言ったというのではなく、キーンと張り詰めた静寂の中で、自分の口から漏れ出た思わぬ言葉だった。
この『腕を組んで座るサンタルパンク』は、1980年に正二郎の長男・幹一郎氏により6億9000万円で落札され話題になったらしい(当時の20世紀絵画では最高値だった)。私がサラリーマンを辞めて八ヶ岳のバイトに行ったのが1983年だから、展示されてまだ間もない頃だったのだ。
それからも何度かこの美術館に通い、苦しいイラスト修行の迷いの中でこの名画たちに励まされ、館内のミュージアムショップでピカソの小さなポスターを購入した。それは東京では壁に飾ることなく丸めたまま群馬の山暮らしに持ち込まれ、yuiさんの持っていた布を下地に額装されたのだ。額縁もバランスを考えて選び、サイズもこのポスターに合うよう慎重に決めて特注した。
それがいま囲炉裏暖炉の脇に置かれているあの額なのだ。それを飾るのはこの絵が私の肩を押してくれた記念でもあり、あの時代を忘れないように初心に帰れという戒めもあるのだが、この絵そのものが、言葉では言い表せないほど重要な、絵画というものの奥深さをいつも教えてくれるのだ。
ピカソと同じ部屋に置かれた新収蔵のブランクーシがまた素晴らしい名品だった。イサム・ノグチは駆け出しの頃、パリのブランクーシに師事してアシスタントを務めている。このブロンズ作品『マホガニー嬢』の連作はその時期のものだ。
建築空間としても、すばらしい美術館に生まれ変わった。東京駅で待ち時間ができたなら、皆さんもぜひどうぞ♬
(続く)