蕗の煮物


引っ越してからよく料理しているので外食の機会が極端に減った。そして、たまに食べるうどんがあまり美味しいと感じなくなってしまったw。

たぶんそうなるだろうと思っていた。それは自分で出汁をとって、ちゃんとした醤油などで調味しているからだ(うどん屋もけっこう化学の力を借りているんだな)。

だから、うどん屋では油物(揚げ物類)や砂糖調味(甘いお揚げやばら寿司など)を組み合わせて食べたくなる(そうしないと満足感が得られない)。

先日魚を買ったスーパーで、蕗(ふき)が小束70円で売っていたので買っておいた。蕗などというものは採りたてが美味いにきまっているのだが、出汁で炊いてみるとこれが、すこぶる美味い。山で採る地蕗は香りはいいけれど細くて硬い。これは柔らかくアクもほとんど感じない。栽培ものも悪くない。

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下ごしらえは「板ずり」といって、塩をまぶしてまな板で揉むように転がしてから4~5分熱湯で茹で、流水で冷やしてから皮をむく。これを小切りにし、湯通しした油揚げの細切りとともに出汁で炊くのである。

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出汁は昆布と鰹節でとる。それに日本酒と醤油を入れて落としぶたをして炊き、最後にみりんをほんのちょっと入れる。それだけ。スーパーのお惣菜で売っている煮蕗とは似て非なるものなので、一口目は「なんだこりゃ? こんな薄味のもん食えるか!」と思うのだが、しばらくして滋味が舌を這い香りが鼻に抜け、気がつくとまた箸が伸びている。

そうして感動があり、いくらでも食べられる。お客さんは(私が毎度驚くほど)大量に食べていく。それは薄味ということもあるが、本物の出汁の味が効いていて、蕗や油揚げという素材そのものの持ち味を感じることができるからだ。

それは天然自然の味であり、大げさに言うなら造化の神が創り出した地球の妙味であるが、逆に言えば現代の私たちは、化学物質と油脂と砂糖の味を食べているのだ。

だが、天然自然の味をいつまでも知らないままでいたら、それを生み出す自然というものに感謝や畏敬の念を持つことができるだろうか?

拙著『囲炉裏と薪火暮らしの本』(この本は『囲炉裏と薪火料理の本』とする予定だったが出版社の意向でタイトル変えになった)の中で、

私にとって「料理」は非常に重要な要素である。単に「美味しいものが好き」ということもあるけれど、環境を考えるうえでも「何をどう食べるか」はとても重要なことだと考えるからである。私たちが明日から食べるものを変えれば、地球を変えることだってできる。

と書いたけれど、その思いは外食クルージングしていたこの4年間もまったく変わっていない(引っ越してからは四つ足肉類は家で食べなくなった)。

とはいえ本物の出汁素材は高いんですよね(海洋汚染も気になる)。引っ越して買ったのは業務スーパーの韓国産徳用昆布(真昆布と書いてあり製造は北海道となっている)。

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それから311直後に高松の乾物屋で買っておいた枕崎産の本枯れ節。

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何度も書いているように、鰹節を自分で削るのは若い頃に乾物屋のアルバイトで覚えたものだ。あれから四半世紀、私はいまだ本枯れ節を削り続けている。鉋(かんな)は当時のものを刃を研ぎながらずっと使い続けており、まだまだ使えそうである。

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これがあるから煮物が感動的な味になる。

人工林を理解できなければ本当の森(自然)のことは解らない。

鰹節を削らなければ本当の蔬菜(和食)の美味さは解らない。

「伊勢音商店へ」2009


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