竣工祭に向け敷地づくりが成功裏に終わったなかで、唯一の心配事は敷地最下部の擁壁下に出たグライ土壌である。グライ土壌というのは土に空気が通らなくなって鉄分が還元化し、有機ガスが発生する状態で土は灰色ないし青色に変化する(もちろん植物の生育に良くはない)。造成工事の検査に関わる道側部分では大きな通気透水水脈を入れて解決したが、死角の擁壁側にはこれがたまりにたまっているのだった。
しかし矢野さんはすでに秘策を用意してあり、スタッフに小型重機で縦穴を何本か掘るように指示し、その残土を運ぶ手はずをしている。
おそらく大きめの立坑をつくってコルゲート管を立て、中央には池を作って解決するものと思われる。ここに池ができると、また里山としていいアクセントになる。弱点は次の飛躍へのきっかけになりうる。建築設計もそうだが、予算の制限や敷地がかかえる難題があったほうがいいものができる場合が多いものだ。
斜面の途中にある資材置き場。矢野さんの指示によって風が抜けるように配置されている。前回まで散乱気味であった資材はここに集中して置かれるようになり、それゆえ敷地はすっきりとして見える。
矢野さんが一通り敷地を回りながらこれまでの施工のポイントを解説してくれることになった。茶室とアスファルトの道との間は、もっとせばまっていたはず。それをアスファルトを切って掘削することで、枕木の回廊と竹垣にスペースを確保した。
しかし、さらに重要なのは、アスファルトと土のキワの部分に砕石を入れて空気層を作っておくことだ。このキワがミニマムな通気浸透水脈になっている。それが重要なのだ。
前回に書いた茶庭の水落ち。水は石の下に落下して、その水は左側の池には向かわず、石の下を通って建物側から道路の升に抜けるのである。
みたらしと道路の間を通過中に、矢野さんが樹木の疲弊を発見し、スタッフに点穴で対応するように指示を出す。このラインがグライ化して有機ガスが出ているらしい。このように、矢野さんは常に目を光らせて地中の状態をチェックしている。
建物の裏側は道をはさんで民家に隣接している。そこに目隠しができていた。
物置小屋の装飾にも使われていた製材の余り物「鬢太(びんた)」(丸太を角材に製材したときに出る側の部分)の有効利用だ。それに植栽が加わって、チープな素材なのに違和感なくまとまっている。
縞模様は皮むき機のロールの跡なのだが、そこにちょっと焼きを入れているのも効いている。この素材、隈研吾が高知県梼原町のホテルでも使っていた。
この建築の裏側はなぜか屋根に雨どいがない。かといって雨落ちは考慮されていないため、雨跳ねがひどく、サッシュを泥が汚している。
簡易的な雨落ちを矢野さんが構築する。
砂と砂利、そしてチップをまく。
さらに移植ゴテで溝切りをして雨水を導く。
しかし、その回路は直接のり面に導くのではなく、流速をセーブしながら浸透を促すように迂回させるのである。
新潟大農学部学A先生の協力で地温などのデータを計測する準備も行われている。
公道からの入り口。ここの門の作り方も検討中。
解説の後は植栽の続き。
この石は台原で置かれていた状態とは違い、平らな部分を上部に出して据えられた。この庭には水平な部分がないので、ひとつここに水平石が出現することで安定感と豊かさが出る。
石周りの植栽が続く。
ピラミッド状に尖(とがり)を立てたこの石は、茶庭に降りる枕木階段の手前に置かれた。ここに置くことで遠景とのバランスが取れ、視覚的に下に降りるときの安心感を支えてくれる。
矢野さんは石の置き方一つにしても、すべてに意味を込めて、丁寧である。みたらいの手前には、台原から大石ごと移植されたフジが据えられている。
馬頭観音の石碑が据えられる。
2つ目の馬頭観音。これらの石碑は、どんな歴史をもってあの台原に据えられていたのだろうか? 石碑はここ安養寺の地でまた歴史を刻む。
神慈秀明会の「竣工祭」パンフレットによれば、安養寺の地名は「藤原秀衡(奥州藤原家三代当主で、頼朝に追われていた義経を擁護した武将)の時代に大伽藍を有していた安養寺に由来する」という。安養寺には聖徳太子像が安置されていたそうだ。
石灯篭が再構築される。
かたわらに移植樹を。杭打ちも樹木の根ぎわを締めるときも、荷重は「比重1」を基準とする。強く締め過ぎない。昔の職人はこの「比重1」(すなわち水の荷重)を身体で覚えていた。
地盤がやわらかく「比重1」の力で杭がおさまらないときは、もう一本打つ。
植栽を追加するのに有機アスファルトの部分に矢野さんがツルハシを入れると、ポロポロと簡単に剥がれ落ちてくる。普通のアスファルトなら固まっていてこんなことにはならない。
有機物が噛んで、しかも微細な空隙と水分が骨材の間に満ちているのだ。普通のアスファルトとはまったくの別物だということを実感するのだった。
駐車場の外周に竹で枠を回す。その支柱を打つ。
16時。私はここで上がらせてもらった。上質なアートに出会ったかのような感動を受け続けた2日間だった。