昨夜は松山で食事をとり、道後温泉で汗を流して一路広島へ。災害支援派遣の車両証明を申請しておいたので高速は無料通行だった。深夜に到着したのは東広島市のお寺であった。
翌朝目がさめると生垣に泥の跡が見える。近所の黒瀬川が氾濫しこの寺も被害を受けていたのだ。広島ではここのように災害復旧ボランティアに無償で宿泊場所を提供するお寺がいくつかあるそうだ。ありがたいことである。好天に石州瓦の赤茶がまぶしい。
矢野さんが代表を務める「(一般社団法人)大地の再生 結の杜づくり」では【西日本豪雨被災地 大地の再生プロジェクト】を立ち上げ、行政の動きが遅れている場所を中心に再生支援を行うことになった。プロジェクトチームは7/31に現地入りし、最初に活動を始めたのがここ呉市安浦町中畑地区である。
寺から現地へ向かう途中、広島国際大学前の山もかなり広範囲に崩れていて驚いた。キャンパス内も、朝食をとったコンビニも泥被害を受けたと思われるが、不思議なのは目の前はなだらかな山で顕著な沢も見当たらないことである。そして山林は九州豪雨の被災地のような密集したスギ・ヒノキ人工林地帯ではなく、普通の雑木林だということである。国土地理院の地形図を見ていただこう。
同じく国土地理院の「平成30年7月豪雨に関する情報>空中写真(垂直写真・正射画像)」から。これはもう尋常な崩れ方ではない。だが、この2つから見えてくるのは「道路と大学の敷地そのものが水脈を大きく遮断している」という構えである。まるで大きな屏風のように、道路と大学敷地が流れを遮断しているではないか。
中畑地区に入る。凄まじい土石流の跡だった。石州瓦をのせた大きな民家が大破している。幸い家の人は避難していて無事だったという。
石垣の崩れ。
周囲にはグライ土壌特有のドブ臭い腐臭が漂っているが、数日前最初にここに入ったときはもっと強烈な悪臭だったという。
おばあさんが畑を見に来ていた。左手の家の方で被災当時は避難せず家で寝ていたそうだ。土砂崩れなんて起きないだろうと思っていたという。幸い上流の畑地と家の生垣に守られ家の破壊は少ないものの、家の中は泥だらけだそうで、いまは避難所で暮らされている。矢野さんたちはまず、これらの家周辺の泥ゴミを重機で取り去る仕事をしたのである。
国土地理院地図より。緑に塗ったところがおばあさんの家だ。上流にあるため池が決壊し、土石流が押し寄せたのだ。
やや大きくした地図。
これは国土地理院のホームページから閲覧できる今回の被災状況・航空写真(「平成30年7月豪雨に関する情報>空中写真/垂直写真・正射画像/8,呉東部地区)
http://www.gsi.go.jp/BOUSAI/H30.taihuu7gou.html
ため池は消失しているが、崩壊跡はそのかなり上流まで確認でき、土石流の連鎖が被害を大きくしたことがうかがえる。
これは4つ連続するため池の一番下部。沢の流入によって再び浅い水たまりができている。
上流に向かってみる。
やはり只事ではない破壊力だ。
上側のため池。泥で埋まっている。
ゆる抜きの土管と栓が転がっていた。
右の沢の崩壊地に回ってみた。ここにも小さなため池が1つある。どちらかといえば、この沢の崩壊によって最上流の家は大破したように思える。
ため池のさらに奥に進んでみると・・・
なんと砂防堤が2基あった。
プレートに昭和44年竣工、事業名は「予防治山事業渓間工事」とある。施工主体は「広島県林務部」。
山林は雑木林のように見えるが、ところどころスギ・ヒノキの植栽もあるようだ。ヒノキの丸太が横たわっている。
拡大造林時に植えられたヒノキのサイズだ。
かつて明治以降、広島県の瀬戸内側は「はげ山」が多かった。江戸末期から発達した製塩業のために薪が必要で乱伐されたのだ。また戦中戦後には燃料確保のための乱伐があった。そして花崗岩の風化土という土質と、降雨量が少ない気候ゆえ山火事が荒廃を後押しする。
その後、はげ山復旧事業や治山事業によって緑は回復したが、乾燥地に適応して広島の山林の主役となったアカマツが、今度は大量にマツ枯れを起こした。その後は自然発生した雑木が回復して現在に至っているが、その間には拡大造林時のスギ・ヒノキ植林も部分的にあり、広島の山は全国的にも類のないほど複雑な過程をたどって現在に至っている。
以前ブログ(「2014広島土砂災害の現場を歩く」)にも書いたが、広島の瀬戸内側は「人の手でいじりまわされた山であることは確かで、とくに谷沿いは大きな根系が発達するような、太い木が育つヒマがなかったと考えられる」のだ。
そこに宅地造成やコンクリート構造物による「空気と水の塞ぎ」が加わり、過疎により農地が放棄され、水路やため池の手入れもままならなくなった。
そうして今回の豪雨被害が起きた・・・。
(その2に続く)