早朝のマリンライナーで広島へ向かう。矢野さんの率いる「(一社)大地の再生 結の杜づくり」チームが、被災地の支援活動【西日本豪雨被災地 大地の再生プロジェクト】を展開しており、私も微力ながら取材発信をし、以後マニュアルづくり等で協力することになった。
前回の呉市安浦町は中畑という地区だったが、今回はそこから南にひと尾根越えた市原地区に入る。海から10㎞と離れていないのだが、棚田のある中山間地で、山深い雰囲気に包まれたいい所なのである(赤丸地点)。
前回書いた広島国際大学〜中畑地区との位置関係は下地図のようになる。今回は野呂川という河川の流域になり、赤丸が工事現場である。下流にダム湖がある。野呂川は流路延長は10km程度の小河川だが、昭和期に度々下流域に水害を起こしている。とくに昭和42年7月の集中豪雨による被害は甚大であったという。翌年から河川改修が行われたが、抜本的解決策としてこのダムが建設された。
昭和44年から国庫補助を受けて調査が開始され、7年の歳月と23億2千万円の費用をかけて昭和51年に野呂川ダムは完成した。昭和51年というと1976年・・・大阪万博の6年後、今から42年前である。
中畑から市原に下っていくと、息を呑むような荒涼とした光景が広がっていた。上流に砂防堤がある沢筋なのだが、それを超えた土石流が襲ったのである。
通行止めの看板の先に入っていく。
野呂川ダムのバックウォーターから約300mほど上流、その右岸に小沢と棚田があり、そこに山からの土石流が流れ込んでいた。前回と同じ、独特の臭気がする。
ここはホタル名所だそうで、ネットで調べてみるとホタルが群舞する驚くような写真がヒットする。野呂川ダム公園には無料のキャンプ場もあって、知る人ぞ知る憩いの場所のようなのだ。
道を塞いだ土砂は取り除かれているが、田んぼへの水路がまだ開通していない。
崩壊場所の斜面を登ってみた。棚田は石垣が多いのだが、ここの止めは通気の悪そうなコンクリートブロックだった。
崩壊の始まりの近くは、まだ液状化の跡が残っていて、ぬかるみに足を取られそうになる。
周囲は雑木林だが、スギも混じっている。これなどはかなり太い。
一度、野呂川まで下りて、ダムの流れ込みの方まで行ってみた。ここも相当水が出たらしい。
湖面は茶色ががってまだ濁っている。
それにしても凄まじい砂の堆積量だ。それもサラサラとした、海岸の砂のようだ。本来なら海まで流れて行くべき風化砂なのであろう。石州瓦のかけらも落ちていた。
矢野さんが動かすべき大型重機が故障中で手こずっている。ハイド板のオイルが抜けてしまったらしい。被災支援が始まってから重機の需要が高く、手に入りにくい状況になっている。また被災地は重機やチェーンソーなどの道具を酷使するので故障しやすいという側面も持っている。
ともあれ、まだ生きている田んぼに水を送るというのが今の使命だ。
重機を諦めた矢野さんが移植ゴテで水切りを始めた。いや、すでに朝方から水を切っていたそうなのだ。ここは上の棚田から落ちた水が道に散りながら泥を吸って、全体にぬかるみが広がっていた。それを水切りで秩序を作り、道にして流すと水は澄んでくる。
そして泥が乾いてくるのである(写真下に撮影時間)。このとき水みちの上を、空気も動いていく。すると周囲の空気も動く。このような形で乾いた泥は固く締まり、次回の雨のときもミニ堤防の役割を果たすという。有機物(刈り草)を組み込んでいることに注目。
その先にある壊れた田んぼの泥溜まりの水も澄んできた! 手前に小さな出口を切ってある。このとき切りすぎないのもポイント。大気圧で水面を押された分が、ゆっくりと出て行くイメージで。私は以前、矢野さんが言っていた「昔のため池の水はみな澄んでいた」・・・という話を思い出した。「入り」と「出」をきちんと造って管理しておけば水は澄むのだ。
午後からIターンの住人Iさんの敷地を見に行くことになった。途中崩壊地を通る。
野呂川の上流域は国有林が多く、ほとんどが人工林地化されているそうだ。Iさんによれば、「拡大造林される前はもっと水量が安定していた」と話す昔の住人もいるという。また、尾根筋のアカマツ林ではマツタケが大量に収穫できた(子供たちも小使い稼ぎするほどに)・・・そんな話も聞いた。
Iさんもまた僕の本の読者であった。最初に間伐の本に出会って興味深く読んでくれていたようだ。自作の小屋はなかなか素敵である。ここは台地になっているので幸い被害はなかった。
河原に小型重機を移動して矢野さんが点穴を掘り始める。
水中の石には一面びっしりと泥アクがへばりついている(写真はヨシノボリ)。これでは地中に空気が入りにくいので、
ところどころに重機を穴を開けて空気を動かしてやる。するとアクが団粒化して消えていく。アクが分散すると空気が通りやすくなり、水も澄んでくる。
ただし本流筋の表面の流れの筋は壊さない。矢印が掘った場所。周囲の石の色が白く変わったことが分かる。
ホタルの幼虫の餌である巻貝(カワニナ)を1つだけ見つけた。
重機の仮修理ができて、矢野さんが再び大型重機を動かし、流木を整理にかかる。このような残骸は一般土木ではゴミとしてすべて撤去されてどこかに埋められてしまうが、大地の再生視点からすれば貴重極まりない資源である。まず枝など細い部分は野焼きして熾炭とすればよく、それは通気透水脈の資材として活用できる。
また、中太の枝はチッパーでチップにすればグランドカバーの資材になる。残りの太い部分や根っこは土木資材として杭や土留め材に使える。また、建築資材や薪材として有効利用してもいい。すなわち流倒木のうち1/3は炭に、1/3はチップに、そして残り1/3を再生建築資材とするのである。
現地で出た土や石とそれらを組み合わせ、水脈整備や道づくりに応用して、空気や水の通る空間づくりをしていく。そしてメンテナンスを繰り返し、場合によって植栽を加えることで、その道と水脈を大事に育てていく。
災害を機にここまで生まれてきた地元と外部のボランティアとの人間関係は、本工字で土木業者が入った時点で胡散霧消することになるが、このような有機的な場所を作っておけば、メンテナンスという仕事や再生のランクアップを協働することで、その関係を維持することができる。
その環境は人や農地や山林のためだけでなく、植物やホタルにとっても、また都市部と被災地とを永く結ぶためにも、すばらしいものとなるはずである。
最後に重機のキャタピラが道に落とした泥を矢野さんが丁寧に箒で掃いていた。そして飛び出した枝や根を、バイクや自転車の通行の危険にならないように切るよう指示を出す。
プロの現場では当たり前のこのような後始末の配慮は、地元民との関係を保つ上でも非常に大切なことである。