図書館で宇江敏勝『昭和林業私史』(農文協1988)を借りてきた。宇江さんは1937年生まれ、紀伊半島の山で山林労働に従事しながら本を書かれた人だ。氏のエッセイを昔ずいぶん読んだ。この本もいちど読んでいるはずだ。
この本は副題に「わが棲みあとを訪ねて」とあるように、宇江さんが幼少の頃やかつて働いていた山の現場を再訪するというレポートである。「棲みあと」という言葉にいまの人はピンとこないかもしれないが、むかしの山林労働は現場の小屋に泊まり込みで行なったのである。それだけに宇江さんの描写は、生々しく鮮やかである。
今回、田辺で講演するので確認したいことがあった。むかしの紀伊半島の山のことなのだが、それはあとがきの一文に言い尽くされているように思う。
「それにしても、どの山を歩いても杉と檜の人工林一色に変わってしまったことには、今さらながら感慨を禁じ得ない。炭焼きたちが稼ぎの場としてきた天然の広葉樹林は、紀伊半島においてはほとんど消滅したのである。私もまた造林の現場に転向し口すぎをしてきたのだから、これは誰も恨みようがない。むしろ人工林がうまく育たなければ、また何かの弊害がおきたならば、責めを負わねばならない立場なのである。ともあれ森林にこれほど人間の手が加えられたというのは、これまでの歴史になかったことだ」
この本の取材時期は1983―1987年の頃だそうで、「どの山を歩いても杉と檜の人工林一色に変わってしまった」と宇江さんが書かれてから現在まですでに四半世紀(25 年) の時を経ている。この間に人工林にどのような手入れがなされたかも大きな問題である。
この山林の劇的な変化が、土砂災害に影響を与えないはずはないと思うのだが、たとえば京都大学防災研究所の2004年土砂災害の考察には、森林の影響はいっさい書かれていない。
不思議なことである。
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三豊にある七十一番札所「弥谷寺(いやだにじ)」に行ってきた。岩を抱く大きなカシやケヤキ、そして磨崖仏、岩のしずくが印象的であった。