父の躾とアシタバの花芽


プレアデスの特徴「親子親族と過酷な状況に生まれたときは死にそうなくらい大変な思いをする」について思い当たることをアリアリ。僕の家は商売をやっていて忙しく、それこそ赤ん坊の頃から母方の実家(歩いても行ける程度の距離)に預けられていたのだが、ちょうど5歳のときに父が大怪我をするという事件がおきた。僕はそのとき一人離れて東京の叔母の家でしばらく生活したのである。

その後、父は快復し僕は水戸の実家で高校まで過ごしたのだが、非常にワンマンな父で、母とはしょっちゅうケンカ。目の前でそれを見せられるのは心が凍るような思いだった。ところが狭い家だというのに毎日のように客人が来て、夜には大きな笑い声が響く宴会が続くのだ。いっぽう身内だけの食事時間は厳格で、いつもぴりぴりとしていて、父とテーブルを囲むのはまったく苦痛だった。今では信じられないのだが、僕は子供のころ好き嫌いが多くて、父にしょっちゅう怒鳴られてられていた。

食事中には正座、一言も口をきかず食事を終える。そんな僕の食事光景を見て、親戚の叔母などは不憫に思ったらしく、よく外食に誘ってくれその味を鮮烈に覚えている。また、父方の実家は農家で、家を仕切っていた祖母が僕を可愛がってくれ、僕のために鶏ををシメて出してくれたことなどもあった。

今思えば僕は子供にしては味覚がいくらか鋭くて、美味い不味いをしっかり峻別していたのかもしれない。煮物だって素材の甘さを引き出した本物出汁の薄味のものなら食べれただろうし、味の抜けたパサパサの豆は今だって不味くて食べられない。

釣りがしたくて東北の大学を受験したことを以前ブログに書いたけど、そんなわけでもう一つの本音は、1日も早くこの家から離れたい思いがあった。とはいえ父から仕送りしてもらって大学に行ったのだから矛盾しているわけだが、美大へ進学したいと言ったら「それなら学資は出さない」と言われ、バイトしてまでも美大に行く気がない僕は(それよりも東北の渓流のイワナ!)あっさり工学部へ行ってしまったのだ。

その大学の下宿生活で自炊や料理の楽しさを覚えていった。そして東京での2年3ヶ月のサラリーマン暮らしでは東京という美食のるつぼの中で、短期間ながら外食の楽しさというものを堪能し、やがて絵の仕事を目指して社会から離脱し、ストイックなアパート生活で再び自炊を始める。自分で弁当を作って肉体労働のバイトに行く、というような毎日に突入していくのだった。

よほど強い決め込みや意志がなければ、高松において外食のうどんを避けるということは難しい。それほど近所にうどん屋がいくらでもあり、それなりに安くて美味くてさっと食べれる。だから体にいい食を目指して続けているというのに、仕事が詰まってきて食事の仕度が面倒になったときなど、魔がさして「うどんで済ましたらラク・・・」という状況になるのだが、

ここはぐっとこらえてとりあえず味噌汁を作り、スプリットピーを茹で、今ある野菜を組み合わせてできる丸元レシピはないか? と頑張ってみる。畑にアシタバがあるのを思い出し、花芽がたくさん出始めてきたので摘んで茹でてみたら、これが柔らかくて美味しい。松田のマヨネーズに亜麻仁油を追加でふりかけて、結局摘んだものを全部食べてしまった(笑)。

あの厳格な父の躾がなければ今の僕はなかったのだ。いずれにしても、本当に大切なものは足元に用意されているのかもしれないな・・・。


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