精進の煮物、墓参りのカフェにて


前夜、風呂に入ってみた。膝だけお湯に浸けないように。足のむくみはだいぶ引いた。傷も小さくなった。今日は15:00からyuiさんの盂蘭盆を家でやる。4時起床で家の片付けと床掃除。下屋のテーブルも片付ける。

直売所に行き花や野菜を買う。9時に行ったのだが、交通整理のガードマンが出ているほど大盛況で、すでに切り花は少なくなっていた。帰りに和菓子を買おうと芝山に寄ったら、先日イタルリンダ・ペアが僕のことを話したらしく、それで店の奥さんと盛り上がってしまった。奥さんは僕の好みをよく覚えてくださっていて、その和菓子「老松」が近々復刻されるそうだ。

毎年、盂蘭盆には精進の煮物を作ることにしている。高野豆腐、干し椎茸、ごぼう、にんじん、いんげん、カボチャ、レンコンを、昆布と干し椎茸の戻し汁で煮て、味付けは塩と醤油だけ。

今回は鰹出汁もみりんや砂糖もナシ! こりゃもうお客さんには出せないんじゃないか? と思ったが、「野菜の甘みや旨みがしみじみとわかる・・・」と、案外好評だった(謎)。

お寺のご住職の息子さんが来て読経のあと、皆で墓参り。その後、ご両親とカフェでお茶。7/25に男木島で紹介された木工作家Tさんにアトリエの下屋を工房に貸すこと、また畑を共同でやることに決めたので、その話を伝える。この土地は父上の所有で僕は借りている身だからである。

「あなたが見極めて、いいと思う人なら自由におやりなさい」

と了解を得た。yuiさんが亡くなった今、僕は関西圏には身内も古い友人もいないわけだが、ご両親は僕をいつも支援してくださっている。カフェで、ご両親の戦後間もない頃の苦労話を聞いた。とくに神戸〜篠山から高松に新天地を求めて来た頃の人間的な苦労、それが僕に投射されている気がしてありがたかった。

昨夜、僕の父の亡くなったときのことを確かめたくなって、自分の過去の日記をひもといてみた。父は68歳で肝臓癌で亡くなったのだが、60歳のとき脳溢血で倒れ半身不随になる。それから8年の闘病生活ののちに病没したのだ。僕は臨終のベッドにも立ち会ったが、もうあのとき倒れた父の歳を過ぎているのかと思うと不思議な気がしたし、いまここで第一線で活躍できていることを有難いと思った。

父は頑固で厳しい躾(しつけ)の人だった。子供の頃から一緒に食事するのさえ苦痛で、僕は1日も早く父の元を脱出したかった。小学生の頃から、夕方の猟犬の運動(散歩というような生やさしいものではない)は父の厳命で僕に課せられた日課だった。雨の日も風の日も雪の日も、どんな天候であろうと僕は犬の運動に行かされた。

そして片道6㎞の高校通学も自転車で、バスを使うことは許されなかった。水戸は馬の背の台地で、僕の実家から高校までは千波湖の低地を下り、また急坂を上らねばならない。考えてみれば、この毎日の犬の運動と自転車通学は、成長期の僕の足腰を徹底的に鍛えただろう。

父の思い出とともに、この話をyuiさんのご両親に話しているうちに、自分がデスクワークのサラリーマンから山小屋や土方のバイトに切り替わったとき、なぜすんなり耐えることができたのか? なぜ群馬のハードな山暮らしを、ぎっくり腰ひとつせずやり遂げられたのか? 60を過ぎて炎天下の石積みをなぜ遂行できるのか・・・その原点はあの父の厳命にあったのだと、ハッと気づかされた。

キャンプ場でのMさんのリーディングで、僕の病の奥底には幼少期の父とのトラウマがある・・・と鋭い指摘を受けたばかりだった。

「その思い出を解放する、父親でなく一人の人間として見ることが大事よ」

だからあのやけどの夜は、未来を切り拓くための、僕の生まれ変わりの出発点なのである。

映画『人生フルーツ』の中で、建築家の巨匠フランク・ロイド・ライトのこんな言葉が引用されていた。

「長く歳をとるほど、人生は美しくなる」

映画を観た3年前、僕はその意味がさっぱりわからなかったが、いまこの詩文を、おぼろげながら噛みしめている。


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