「大地の再生」ライセンス講座@三重・なな色の空/1日目


昨夜宿泊した名張のホテルまで下道で1時間20分程だった。三重県は南北にひょろ長く、南端は熊野の新宮に流れる熊野川を県境とし、北の桑名市はもう名古屋に近い。そして中央の海沿いに伊勢がある。

熊野から尾鷲、そして伊勢、松坂、宮川や櫛田川から吉野などは取材で何度も行っているし、亀山〜鈴鹿〜四日市〜名古屋はかつて軽バンで下道車中泊をしていたときはよく通ったルートだった。そして奈良も室生寺までは奥に入ったことがある。

が、なぜか甲賀〜伊賀〜名張の辺りは私にとってまったくの空白地帯で、かすかに甲賀の信楽に焼き物を見に行った覚えがあるくらいだ。今回の講座の農場「なな色の空」は名張から30分ほど山に入った所にあるのだが、住所は津市である。

津市はこれまた南北にひょろ長く、三重県庁や津市市役所は伊勢湾すなわち太平洋側の海に近い場所にあるのだが、農場は津市の再奥の、倶留尊山 (くろそやま/標高1,037m)という山の麓にある。

流域としては名張川の上流部であって、この川は三河湾には流れず月ヶ瀬で木津川に合流し、さらに大山崎で淀川に合流し、大阪湾に流れる・・というなんとも複雑な地勢になっている。

さて、三重県といえば尾鷲をはじめとして林業が盛んな県で、人工林率が高い。次の住所が美杉町というくらいだから、さぞかし・・・と山を観察しながら車を走らせた。あるある、やはりスギだらけなのであった。

途中、護岸工事で林縁の木々が伐られたばかりの場所を通る。下枝は枯れ上がって緑の葉は上部にほんのわずかしかない典型的な線香林だ。林縁部は緑の片枝をたくさんつけているので普通はこうは見えない。が、いま日本の荒廃人工林は中に入るとほとんどこのような林分になっている。

林内は暗く、下草が生えていないので雨のたびに表土は流れ、しかも昨日の野村さんの研究によれば、スギの枯葉は「フミン質」という難分解物質で、川に流れたそれは生き物の食物連鎖を断ち切るほどの悪玉だという。

こうなる前に、伐り捨てでも巻き枯らしでもいいから強度間伐をして、針広混交林に誘導していかないと大変なことになる・・・と、私は鋸谷茂さんと共に20年も前から「鋸谷式間伐法」という間伐技術を提唱し、いくつかの本を著してきたのだが、残念ながら大きなムーブメントにはならなかった。

さて、農場「なな色の空自然農園」に着いてみると、やはり地図でみた通り倶留尊山 は岩壁がそびえてなかなかの威容であった。岩質は流紋岩で柱状節理が各所にあるらしい。双眼鏡でもその様子が確認できた。

この傾斜からして手付かずの天然林のはずだが、その樹木の枝葉の付きは薄い。

農場は昭和期に開拓されたもので、大根などを作っていたが経営がうまくいかず撤退。放置されたものを今回の施主で農場主の村上さんが再び農地として再生された。普通、山村の農地・敷地にはたくさんの樹木があるものだが、昭和期の開拓のせいか木は少なく北海道のような光景に見える。そして 残された樹木は元気がない。

村上さんは昨年の浜松でのイベント、ラブファーマーズでお見かけしたり、大地の再生の学術連携会議でお会いしたりしている。こんな場所に拠点を構え自然農を実践されているとは驚きだった。コロナ休校で今回はお子さんも参加。

建物に付随するのは小規模なエコトイレで参加人数のキャパが心配というので、まずは「風のトイレ」を作ることになった。

材料は農場にあるものを即興で利用。スギ間伐材の杭がたくさんあったのでそれでフレームを組む。男女別の2部屋型で、それぞれ別方向かた入るよう穴をセッティング。

ゆるい傾斜地で大木が近くにあり、水はけよく分解能力は高そうな場所だ。作業を見守る村上さんはただのポットン型をイメージされて心配顔のようだが、「風のトイレ」の分解能力を知ればきっと驚かれ不思議がられることだろう。

屋根と壁の下地にブルーシートを利用し、

小枝や割竹を利用して雨がたまらないように下地を打つ。壁はスギ枝葉を用いる。

板がないので杭丸太を並べてトイレ足場に。

昼過ぎには完成。

現場で描いたスケッチ。

指示で動き始めると矢野さんは重機で山側の境界を掘り始める。フェンスのすぐ向こうにはゴロタ石が無造作に積まれ苔むしているのだが、これは倶留尊山の柱状節理がサイコロのように割れて転がり落ち、長い年月をかけて堆積してきたもので、開拓当時に寄せ集められたものらしい。だから境界は重機の踏み跡になっており固く締まっている。そこをブレーカーでほぐす。

昼食は野菜たっぷりのマクロビ食。村上さんの奥様は京田辺でマクロビオティック・レストラン「なな色の空」を運営しているというから、この農場の野菜がふんだんに使われているのだろう。

その後、矢野さんは母屋前の道路に水脈を掘る。

「風の草刈り」班は農地(遊休地)で作業。

農地に降りてみる。石垣があった。瀬戸内海の男木島にも見られるが、柱状節理が折れたゴロタ石は石垣のサイズに最適である。初期の開拓の方々が自力で積んだものなのだろう。

矢野さんはこのところ表層5㎝と不定形に目覚めて、浅い水脈を亀の甲羅模様をランダムに継ぎ足したようなトレースで描く。そこに先に炭、次いで粗腐葉土が入って溝が埋められ・・・

さらに全体に炭+粗腐葉土がグランドカバーされる。今回、ここには小枝類は入らない。グランドカバーのおかげで水脈のトレースの跡はもう分からなくなる。が、これがじわじわと効力を発揮するのだ。この路面には泥アクの表情があった。つまり水はけが悪く、そして植物の生え方が薄かった。それらが改善されるだろう。

今回の重要ポイント、母屋の裏側。そこに農地斜面につなぐ水脈が掘られる。ここは地山なのか石がゴロゴロ出てくるのだった。

炭を入れてから有機資材(ササ)を入れていく。

農地側の道路・駐車場のキワにも炭とグランドカバーをして本日の作業は終了。「大地の再生」ではこの炭材と粗腐葉土によるグランドカバーが仕上げの重要な作業になるので、毎回トラックに大量の2つの資材を運んでくるのだが、実はこれらの資源はいま無尽蔵にあるわけで、そんな目で見れば放置された山林や休耕地には宝の山に見えてくる。

夕食は母屋の広間で。壁際にロケットストーブ型の調理炉があり、隣にダクトを這わせたペチカが作られている。冬はこれだけでかなり快適だそうだ。

これができるまでは寒くて大変だったとか。なにしろ中央の広間はコンクリートの叩きに最上部までの吹き抜け。これでは大型薪ストーブに大量の薪が要る。

話してみると村上さんは僕と同い年(同学年)で福島生まれであった。しかも福島の阿武隈山地の生まれ育ちで実家が農家。飯館村に新天地を構えたところに311の原発事故。そして母校の愛農学園(近隣の甲賀市にある)との縁でこの地を見つけたという。

僕は茨城の水戸の生まれだが、中高時代は県北の阿武隈山地の中でチョウの採集や渓流釣りを通して自然にどっぷり浸かり、そして大学4年間はイワナが釣りたくて福島の郡山市で過ごした。僕もまた311の余波を受けて群馬の山暮らしから撤退するという経緯があった。

「そうなんだ・・・じゃあ若いころ郡山あたりですれ違っていたかもしれないな」

Mさんとそんな会話を交わした。

参加者の皆はこの母屋に泊まるが、僕と矢野さんは打ち合わせのため名張のホテルヘ。


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