作家の故・開高健が今年生誕90年。昨年は没後30年ということで、今年は企画・イベントなどがいろいろあるらしい。僕は高校時代から開高の小説を読み始め、エッセイ+写真『フィッシュ・オン』に影響を受けて日本のルアー・フライの黎明期を走り続けた。
茨城県の水戸市で生まれ育ち高校時代までそこに居たが、大学は東京方面は一校も受験せず、東北の大学を指向したのはひとえにルアー・フライでイワナを釣ってみたかったからなのだ。絵が好きでそれを職業にしようと決めていたので、本当は美大に行きたかったが父がそれを許してくれなかった。それに東北地方には美術系の大学はないのであった。
福島県の郡山市での大学4年間は開高のエッセイ『白いページ』に耽溺した。たしか角川文庫版だと思うが、池田満寿夫の版画が装丁に使われていたやつだ。アマゾンではすでにその版はないが、ネットで検索してみると・・・・あった、これだ。マスオの絵は裏面にある。Ⅰ~Ⅲ巻と3冊あって、当時初版が出たばかりの頃だった。
旅と食と釣り・・・このテーマが満載なのでもう面白くて面白くて・・・しかし今思えば開高の正確かつ濃密・緻密な日本語文体を読みふけったあの時代は、僕のモノ書きとしての才能を強化するのに役立っていたのではないかと思う。まさか文章まで書くようになるとは、あのころ全然考えもしなかったけれども。
僕と開高は不思議な符号がいろいろあって、まず開高が最初に海外旅行でパリの地を踏んだのが30歳のとき。同じく僕が最初に海外旅行に出たのも30歳のとき、しかも行き先はパリ。そして、その旅の出る直前に開高の訃報を聞いたのだった。
2007年、旅の途上で茅ヶ崎の「開高健記念館」へ立ち寄った。その時買ったキーホルダーはいまもスバルの鍵にぶら下げて使っている。
実は開高にはもうひとつ記念館があって、ごく最近の2014年、杉並に「開高健記念文庫」というのができた。「開高健記念会」の公益法人化にともない、開高健夫人・牧羊子の実妹氏より土地・建物が財団に寄贈されたものらしい。
ここは開高が大阪から上京し、1958年芥川賞受賞後の同年8月に牧夫人と最初に居を構まえた場所で、開高文学の金字塔『輝ける闇』『夏の闇』はここで生まれた(もちろん『フィッシュ・オン』や『白いページ』も)。で、ですね、この場所なんですが、調べてみたら驚いたことに、なんと僕がイラストレーター駆け出し時代に住んでいた木造2階建てのボロアパートのすぐ近所だったのだ!
Googleマップで調べてみると、直線距離で50mくらいしか離れてないの(驚!)。僕がこのアパートに居たのは会社を辞めて八ヶ岳の山小屋でバイトをしたあの時代、1983年から85年までの3年間。当時、開高はすでに茅ヶ崎に移っており(1974年/44歳で茅ヶ崎に転居、のちの「開高健記念館」)、『PLAYBOY日本版』に連載していた南米旅行記が『オーパ!』として刊行される時期に重なる。
それにしても、開高の重要な代表作はほとんどこの杉並で生まれたのだ。もちろん僕は当時そんな事実も知らなかったし、「開高健記念館」のHP開設によって初めて気づいたわけだが、なんという偶然なんだろう、開高の残したエネルギー・磁場に引っ張られたのだろうか?
パリを愛した開高はまた『フィッシュ・オン』の中で「アラスカで釣りをしてからパリに帰ってきたら『華麗なる肥溜め』としか感じられなくなった」(いい比喩ですなぁw・・・)と書いており、
「都会は石の墓場です、人の住むところではありません」
というロダンの言葉を冒頭に掲げている。
僕の30歳のパリの旅は当時の仕事がらみから突然発生したものなのだが、直前に開高の訃報を聞いたものだからメランコリックでもあり、いろいろ感慨深かった。ロダンの美術館にも足を運んだ。しかし僕はむしろ開高とは逆で、それまでずっと自然にばかり目を向けていたのに、パリに来て街並みに感動し、建築に開眼したのだった。
僕は開高の芥川受賞の翌年に生まれ、僕の初期の代表作(って勝手に自分で呼んでいるですが)『クラフト紙シリーズ』は開高の旧宅付近で生まれたわけである。
開高のお墓は北鎌倉の円覚寺にあるらしい。僕はすでに開高の没年を過ぎてしまったわけで、なんだか愕然とするのだが、機会があれば杉並の記念館とお墓を訪ねてみたい。こんな文学青年みたいなこと、僕はしないタイプなんだけどね(笑)。