阿武隈的風土/丸森町3日目


阿武隈川は東北第二の大河といってもよく、昭和の初期まで船運が栄えた場所だった。丸森町には名勝・奇岩を巡る渓谷約4kmを往復する「阿武隈ライン舟下り」と呼ばれる遊覧船コースがある。講座3日目の今日は、19号台風の被災現場を見にいったのだが、氾濫原は阿武隈川本流ではなく支流の小河川だった。奥に見えるのが今回の決壊堤防の補修跡である。

現在土木的に造られている堤防には植栽がほとんどない。が、かつての大河川の堤防には必ず並木があったものである。樹木の根が堤防を補強して決壊を防ぐわけだが、この頃の学者たちは「樹木の根が堤防や石垣を傷める」と樹木を排除する傾向にある。矢野さんに言わせるとこれは「とんでもない見解」だそうである。

樹木との付き合い方を忘れ、共存の智慧を失ってしまったのだ。大地が詰まって樹木が苦しそうな表情をみせるとき根が暴れ、構造物の破壊にまわることはあるが、良好な関係(手入れ)で共存すればむしろ「堤防や石垣を強靭に守る」のである。

農地に洪水の泥が堆積していた。その上を歩けるほどに乾いている。

かつて化学肥料に頼らない時代には、洪水の泥は養分を含んだ恵みの土だったはず。獣や鳥たちの足跡が多数。

それにしてもひび割れのパターンが美しい。まるでパウル・クレーの抽象絵画を見ているようだ・・・などと、不謹慎ながらひとり呟くのであった。

洪水後の堤の亀裂。

その補修のためのコンクリートブロック。

仮復旧なので簡易的なリングで止めてあるだけだ。

皮肉な事に、洪水の後は植物が生き生きと復活しているように見える。地中の詰まりが取れ空気通しが良くなっているからだろうか。

蔵にも破壊の爪痕。

五福谷(ごふくや)川流域の氾濫の被災はすさまじいものだった。

どれだけのエネルギーをかけたらこの物量を運ぶことができるのか。

一昔前ならこれらの木材は燃料としてくまなく利用されたことだろうし、運ばれてきた石もまた重要な資源である。

支流の内川。さけます孵化場がある付近。標高 50mくらいの場所だが、渓流の様相をしていてなかなか良い。阿武隈山系は老年期のなだらかな地形なので渓相が穏やかで釣りにはもってこいの川が多い。が、原発事故で淡水魚は放射能汚染され、川魚に出荷制限がかかった。

橋に流木が掛かっていた。災害が頻発する現在、これからの橋は大きな障害物がくると橋桁が流れる「流れ橋」のようなものが必要なのかもしれない。

午後はカフェに戻って、

カフェの奥様が手作りしてくださった豚汁をいただきながら昼食。

もう一匹のネコ発見。

睨まれたw。

カフェの中では写真家のK嬢の誕生祝いも。

午後から私はカフェの中をお借りしてPCで仕事。皆は昨日の作業の続きを。薪ストーブが効きすぎて窓の隙間をあけたほどだった。ボディビルの趣味を持つというカフェ・オーナーから心温まる挨拶があって三日間は終了。

夜は宿で自炊。今夜は牡蠣鍋。大槻さんのご友人が311の震災以降に島で養殖業を始められた、その牡蠣だそう(すこぶる美味しいものだった)。

仙台が近いために、東京から向かうとき観光地としての目線を持ちにくい丸森町だが、阿武隈山系の北端にある独特の風土を感じた。阿武隈山系の南端は茨城県にあり、そこには福島の棚倉町に源を発する久慈川の河口がある。阿武隈山地は阿武隈川と久慈川にぐるりと囲まれていると言える。

私の父方の実家は久慈川河口の近くにあり阿武隈南端の山裾がすぐそばであった。高校時代までチョウの採集や渓流釣りに通った北茨城の山々は、現在の私の仕事の原点といえ、大学の4年間は阿武隈川のほとりにある郡山市で過ごした。考えてみれば私は阿武隈山系にずいぶんお世話になっている。

老年地形の阿武隈山地は里山的風景の宝庫である。初めての丸森町で3日間を過ごして、自分の自然観や精神的支柱はこの阿武隈的な風土に育まれたのだということを教えられた。


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