朝、鳥取砂丘を見にいく。意外や砂丘のすぐ近くまで住宅地が密集している。砂は褐色。時間がないので中に入って歩いたりはせずコペンと写真を撮って先を急ぐ。
「杉のまち」智頭を目指して千代川を遡る。「流しびなの館」に立ち寄るが、ここに展示されている人形はみな現実に使われていたものばかり。その強烈な波動にたじたじとなってしまう。智頭では割烹旅館「林」の池に飼われるオオサンショウウオに再会する。彼は生涯をここで過ごすことになるのだろうか。抱きかかえて川に放す衝動にかられたが、千代川は以前来たときより河床が浅く埋まって河原に草が目立つ。井伏鱒二の小説さながらの彼を哀れむしかない。
峠に近づくと台風被害でなぎ倒された林地に出会う。近くの農作業のオバサンに聞くと持ち主は別の人らしい。「金にならんから言うて、ずっと放ったままですよ」とのこと。
岡山県境の東粟倉村もかつてオオサンショウウオの豊富な場所であったが、今はコンクリートの護岸だらけで「湯~とぴあ黄金泉」などという温泉ランドができ、観光客でにぎわっている。山越えで国道をショートカットすると、荒廃したヒノキ林と、その倒壊現場が間近に現れる。そこにもまた、メルヘンチックな施設や公園の看板があって、力が抜けてしまうのだった。
兵庫県に入り、4つの峠を越えて朝来へ抜けた。この一帯もうんざりするほど人工林が多い。そのほとんどが間伐遅れの線香林で、倒壊箇所もたくさん見られる。
倒壊箇所のたびに撮影していると時間どんどん遅くなるのでいいかげんに切り上げて、元伊勢に向かった。今日は福井で鋸谷さんと会食する予定なのだ。
元伊勢とは、現在の伊勢に天照大神が祀られる前に、ここで祀られることがあったからそう呼ばれる。当時の大和からなぜこの祭神が出ていかねばならなかったか? 古事記では姫に夢のお告げがあったから、とされる。しかし本当は当時、新興宗教の出雲教との確執があり、その難を逃れて天照大神の祭神は移動せざるを得なかった、と山本氏の書く飛騨の古伝は言う。
日室岳にも参拝した。2000年に鋸谷さんの山を初めて訪れた後で、ここに立ち寄り、この山づくりの伝播を願ったことが思い出される。遥拝所には「願」と文字が穿たれているので、ここは願掛けの場でもあるのだろうか。だとしたら、僕はお礼参りに来たことになる。
夜はその鋸谷さんと久しぶりに再会し、近況報告を交わした。鋸谷さんの元には最近学術関係者が多数やって来ていて、強度間伐の山づくりを「胸高断面積合計」という数値で推し量る「絶対値」による証明が行なわれているとのことだった。一方で間伐材を住宅建材として加工利用する研究を進めていて、特許取得目前まできているという。相変わらずエネルギッシュでエキサイティングな人だ。僕もまた次の段階に突き進んでいることを、鋸谷さんはとても喜んでくださったようだ。