スギの残滓


昨年8月に取材した群馬県松井田の田辺林道施業のその後を見てきた。2日間の田辺さんらの施業を引き継いで、地元の作業班が道を延ばしていた。田辺林道の大きな特徴の一つは、盛土に表土をブロック積みして自然植生を促し、法面の崩壊を防ぐことである。

8月に施業したということは、その植生回復には時期的に不利なのであるが、崩壊はまったく見られない。盛土の基礎とも言うべき「床掘り」とその転圧、さらに表土を地山と交互に積むことによる転圧効果によって、植生回復によらずとも強固な盛土法面ができている証しのように思われた。もちろん、根株を埋め込む効果、アンカーを使った丸太による法面の土留めも見逃せない。

その作業道を入れた後で、間伐材を出した跡があり、結果的に強度間伐を施した山に変わっていた。数年ですばらしい山に回復するだろう。と、ここまではいいのだが、僕らが目にし、気になって仕方がないのは、その伐採残滓の山であった。

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木を伐採し、木材を運び出した後に残る、膨大なスギの枝葉のことである。昔なら、燃料としてこぞって採取されたこれらの枝葉が、持ち去られることなく、山に林道に厚く堆積している。囲炉裏を日常に使っている僕らとしては、この光景が勿体なくてしょうがないのである。

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なぜなら、スギの葉、スギの枝は、なかなかスグレモノの燃料なのだ。

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まず、スギ葉。これはアトリエでは、焚き付けとして欠かせない。焚き付けーーファイアースターターには、新聞紙や書き損じの紙なんぞでもいいのだが、これらは化学的な処理がしてあるのか、印刷に科学成分があるせいか、嫌なニオイがするし、燃え尽きたあと黒いヒラヒラとなって飛び回ったりするのが気に入らない。

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スギの葉っぱは燃えやすいだけでなく、持続力があり、次の小枝に炎を託すまで十分に時間を保たせる優秀な焚き付けなのだ。ヒノキの葉っぱはダメ。パチパチと一気に燃えて危くてしょうがないし、すぐに燃え尽きる。スギ葉は安全で匂いもよい。なにせ、線香の原料にもなるものだから。

そしてスギの枝。スギの幹よりも稠密であり、細胞に空気の含有が少ない。だから、スギ幹の薪のように爆ぜることがない。よく燃え、保ちもよい。これが、いまの人工林に入れば取り放題なのだ。風が吹いた後、山に入ればいくらでも拾える。そして、適度に乾いているのですぐに薪として使える。

ま、そのうち、この存在に気づいて、スギの枝葉をペレットに加工する技術とやらも生まれるのだろうか? だが、僕らはこのペレット化と、ペレットを使うというストーブの文化には、疑問を持っているのだ。森からの産物を無機質な原料と同じように扱ってほしくはない。ものを燃やすということには、安易な態度でのぞむべきではない、と思うのである。

森に行く。枝を拾う。枝を束ねる。それを運ぶ。それを使いやすいように切る。燃やす。煙りを避ける。火の粉に気をつける。灰を処理する。そのプロセスをひとつひとつを噛み締めることが、大事だと思うのである。森の観察、刃物の使い方、火の扱い、すべてが重要なのである。

それは結果的に少々寒かったり、怪我の危険があったり、面倒であったりするけれども、それ以外のところで現代文明を使えばいいのであって、肝心のところはじっくりと苦労し、対話したほうがよいと思う。

この使い分けの見極めこそが、新たな文明復興の勘所なのではないだろうか。

スギをいろいろ活用しようという運動があるようだが、それが「チェーンソーアート」なんてもんじゃぁ、あまりにも情けないぞ!


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