火鉢に自家製の燠炭を使う
暖かい日が続いている。菜の花がもう開花し、ミツバチが動き始めている。おかげでこのところ、薪ストーブに火を入れていない。アトリエの薪ストーブ、通称「トラちゃん」が1階の部屋に入ったのが昨年の10/26。薪ストーブ特有の暖をずいぶん楽しませてもらったが、さすがに薪を大量消費するので毎日は使えない。よほど寒い日を除いては、火鉢と電気コタツで暖をとっている。
その火鉢に使う炭は、囲炉裏でできる燠(おき)炭である。囲炉裏で料理と食事を終えて和室に移るとき、小さなシャベルのようなもので燠火を火鉢に移動する。また、これを消し壷に入れて保存。壷が炭でいっぱいになったらスーパーの買い物袋にとっておく。それも使う。これは集落のおばあさんたちに教わったのだ。
囲炉裏で大きめの枝を燃やしていると、先端に真っ赤に燃える熾ができる。大きく成長した燠を火ばさみでコンと叩くと燠が落ちる。それを消し壷に入れて蓋をする。蓋をすれば火は消え、すでに入っている炭にも火はつかない(ただし、蓋を忘れたりすると、消し壷自身が火鉢となって大変なことになる)。「火消し壷」はいまホームセンターでも売っているが、蓋付きの料理鍋でも代用できる。底が焦げるので薪を2本渡してその上に鍋を載せればいい。
夏から囲炉裏でこんなことをやって、燠炭を何袋も作っておくと、冬の間に消費する炭は自家製でまかなえるということに気づいた。囲炉裏やチビカマ君での料理のとき、炎を炭火に切り替えたいときもこの燠炭は便利だ。ゴトクに網を載せて、炭火焼きが手軽に楽しめる。餅や焼き肉や干魚など、この炭火で焼くと火通りもよく味もすばらしい。
燠炭の便利さ
この燠炭は、炭師がきちんと焼いた黒炭に比べ、形も小さく火持ちも悪く頼りないが、簡単に着火するという利点がある。たとえば、食事を済ませた外出から帰って「これから囲炉裏の火をおこすのはおっくうだな」と思うときは、キャンプ用のガスストーブに火おこしを載せて燠炭に着火し、火鉢に移すのだ。この間わずか1分である(この後は口で吹いて火を大きくする)。
薪や炭がいいところは、放置しておくと消えてしまうことである。だから使いすぎることがない。煙や不完全燃焼の心配があるにはあるが、電気や石油やガスのように、スイッチの切り忘れで延々と燃料を消費し続けることがない。
この燠炭もまた、広葉樹のいい薪からできたものは、質がいいのはもちろんだが、僕らが使っているのはスギ薪だったり、スギ枝だったり、広葉樹でも倒木の古いスカスカ薪だったりすることが多い。これでも十分なのだ。山に住んでいてさえ、広葉樹を伐り出してきちんとした薪に整形するのはなかなかの労働である。囲炉裏やカマドでは枝でも十分だし、敷地の樹木の剪定枝も毎年かなり出る。それに少しの薪(おもに間伐材からのもの)を組み合わせるだけで、炭使いもでき、暖と料理を両方こなせる。
薪ストーブ vs 囲炉裏+カマド+火鉢(掘りコタツ)
ほんの数十年前まで、暮らしの中で当たり前のように行なわれていたこのような「薪の使い回し」は、なぜかこの田舎暮らしブームの中でほとんど語られていない。花形はなんといっても「薪ストーブ」なのだ。しかし実際使ってみるとストーブは薪を大量に消費する。太い薪でないと早く燃えてしまい効果が薄い。細い枯れ枝などは、焚き付けにしかならない。これから田舎暮らしを始める人が皆、薪ストーブだけを使うのなら、薪漁りで悲惨なことになるのではないか?
そして薪ストーブは、料理に使いにくい。せいぜい煮物。焼き物にしても火加減ができない。だから料理のためだけにストーブに火を入れるということはありえない。また、すごく寒いときはありがたいものだが、ちょっとした寒さのときは、薪ストーブでは部屋が「暑すぎる」のだ。ということは、年間の部屋の中で無用の長物になる期間がかなりあるということだ。
囲炉裏、カマド、火鉢(掘りコタツ)、というスタイルは、土間と畳を使い分けた日本人の生活スタイルから導き出された、最もムダのない薪使いの黄金率なのだと、いま山に暮らして実感している。もちろん「そんな悠長なことは現代人にはムリ」と言われればそれまでだが、しかし、アトリエに遊びに来る人たちの、炎に吸い寄せられる瞳をみていると、潜在的に薪使いにはまりそうな人はかなりいると思う。
京町家での薪暮らし
ところで、こんな暮らしは田舎だけの話なのだろうか? これは京都の町家でカマドを使っていた頃のおばあさんの手記である。
「まだ、おくどさん(筆者注/カマドのこと)を使うていたころ、大きいおなべに水を張ってひとくべするだけで、どんどんお湯がわいた。折り箱でもかまぼこの板でも、不用なものはなんでも燃やしてしまうので、家の中も片付いたし、お湯もふんだんに使えるので、ありがたかった」「初めて湯沸かし器を取り付けたときは、なんやらガスをむだづかいしているように思えた。なんせ、それまではほかす(捨てる)ものでお湯がわいていたのやから」(『ほっこり京ぐらし』大村しげ著、淡交社1997/『日本人の住まい方を愛しなさい』山口昌伴著、王国社 2002より採取)
これは農家のような大邸宅ではなく、京都の中京・姉小路の棟割長屋の、小さな台所空間でのことである。僕はかつて水戸の町中でカマドを使っていた母方の実家での体験を思い出す。その家もまた大きな家ではなかった。木造の平屋建てであった。しかし、カマドのある土間と、餅つきができる程度の庭があり、ちょっとした作業のできる縁側があった。また、手漕ぎの井戸があってそこが子供たちにとって小さな広場になっていた。町でもこんな暮らしがあったのだ。
囲炉裏、カマド、火鉢を取り戻すことが難しいのは、今の「文化住宅」の素材・空間的間取りにも大きな原因がある。土間がない、軒(のき/屋根のひさし)が狭い、野や畑と台所との緩衝空間がない。それは料理の種類さえ規定していく。たとえば食品保存は冷蔵庫中心になってしまったし、家全体が暖かすぎて「漬け物樽」を置く場所がない。そして、燃やせないゴミも増えてしまった(昔のように経木が復活したらいいなと思う)。
薪使いが抜けた木造文化復興運動
日本の木造文化は、地場材を使う昔の軸組工法の復権という運動がありながら、この薪使いという部分がすっぽり抜け落ちたまま、デザインが進んでいる(「高級・薪ストーブ」と「炭だけ使う囲炉裏」はあったりする)。薪を使い、炎をみつめる・・・これが山と繋がっているという幸福・・・・このことが、木の家に住んでいる人が味わえないなんて悲しい。
一方で、林野庁の「新生産システム」の名の元に、今後大量の国産材が市場に出ることになる。これらは住宅産業で使われることになるだろうが、それが軸組の健康住宅になるとは限らない。そしてその伐採残滓(建材に使われるのは倒した木全体の半量程度)は、薪にならず山に放置されるのは、いまのところ確実なのである。
・新たな人工林の再創造
・木造文化の復権
・囲炉裏、カマド、火鉢(掘りコタツ)の新たな使い方
・それらが機能しながら現代に即した家の設計
・空洞化した町の再建
・森の健全化による地下水の再生
これらがうまく繋がると、全国で町も山も人も、元気になる。かつて「町中囲炉裏自然農計画どうよ」という突飛な一文を書いたことがあるが、なんだか、すごくスッキリする。
ところでアトリエではいま、台所に新たなカマドと石窯、そしてゴエモン風呂作りの計画を練っているところだ。
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