佳日、高崎に出たついでに、かねてから気になっていた住宅展示場に行ってみた。現代最先端の建て売りや注文住宅というものはいったいどうなっているのか? という興味がわいたのである。ちょうど大手住宅メーカーのモデルハウスが集結する場所があった。そこで3~4軒ばかり回ってみた。衝撃を受けた(笑)。もうクラクラである。
高気密住宅、オール電化、床暖房、3重窓、いやはや凄いのなんのって。外部は遮断して自分たちの暮らしだけが快適ならいい、という発想だ。まず家じゅう明る過ぎ、ピカピカ過ぎ、ほとんど悪趣味なギャラリー、またはカフェ。すき間なんて全くないので息苦しくて苦しくて、アトリエの木と土と風に慣れた僕らは入って瞬時に気持ち悪くなるのだった。なんというかその気持ち悪さは、肺だけではなく皮膚そのものから感じられるものだ。
構造はいちおう木を使っているらしいのだが、木としての生命の痕跡がまったく感じられない。張り物や塗りだらけで無垢の木がほとんど存在しないのである。断熱材としてグラスウールがしこたま壁に挟まれ、構造用合板でサンドイッチ。外側はサイディング。これは石油系断熱材をつけたアルミ合金に化学塗料。家の解体時にはほとんど再利用できそうにない素材ばかりだ。
そしてオール電化。あのペッタリした電磁コンロじゃ中華鍋で強火の炒め物なんてできないよね。あ、長く使うと必ずハゲてゴミ捨て場行きとなるテフロン加工のパンを使えばいいのか・・・。この電線を辿っていくと、ずーっと山の方の水力発電所とか、ずーっと海の方の火力発電所とか、はたまた恐~い原子力発電所とかへ、あのバカデカイ送電線と鉄塔をスキップしながら繋がっているんだ・・・。
「人類は確実に死に向かっている」と思った。
風が強かった翌日、敷地の山でスギ枝を拾ってきた。林の入り口のところで、抱えきれないほど(わずか十数分)集め、それを縄で一束にして運ぶ。その火で暖をとりお茶をのみ味噌汁をつくりご飯を炊いた。スギの枝はやわらかい炎なので、強火にしたいときは小枝をくべる。
小枝は敷地の梅の木の剪定枝だ。剪定枝は、今や田舎でさえ見向きもされないゴミだが、僕らはこれを丹念にさばいていくつもの束をこしらえて日向で保存しておいたのだ。太さは鉛筆以下、先端はマッチの軸くらいしかないが、囲炉裏にくべると強い炎をたてる、そしてその炎からは、かすかに梅の匂いがする。
梅の枝は細かい枝がたくさん飛び出して、さばくときに手が痛かったのだが「苦労して薪にとっておいて良かった」と思った。
ご飯を炊き終えて、保温の間にゴマを煎る。ステンレス網のゴマ煎り器はとても便利だ。これで囲炉裏の直火で金ゴマを煎る。ガスコンロとフライパンを使うのに比べて、実に簡単にむらなく煎れる。
それを陶器のすり鉢とサンショウの擂粉木で当たる。擂るのではなく、軽く表面をなでる程度にゴマをつぶすのである。精白した米ではなく玄米や分搗き米にはこのすりゴマがとてもよく合う。最近気づいたことは、この煎りたて擂りたてのゴマの味もまた、日本人が失ってしまった大事なモノの一つだ、ということである。
すり鉢や擂粉木は、ちょっと昔の台所では包丁を上回る台所の主役だった。ことわざに「すりこぎ食わぬ人はなし」と言った。擂粉木は使えば減っていく。すり減った分はわずかだが食物にまざる。人は一生の間にすりこぎを何本も食べてしまう。そして「山椒の擂粉木、中風にならぬ」とその薬効を説くことわざもある。山あいの農家の人は、何種類もの擂粉木(材質や大きさなど)を使い分けたそうだ。
電動フードプロセッサーで粉にするのとワケがちがうのだ。梅の木の炎をみてふと思った。現代の家が擂粉木を駆逐しているのだ、と。囲炉裏端ではこの「煎る・擂る・食べる」というのが簡単でおっくうにならないのだ。
煎りたて擂りたてはなんとも美味しいのである。「煎る」「擂る」というアクションは、美味の鮮烈さを呼び覚ます重要な調理処方だ。その香ばしさは、外食や弁当などでは決して味わえないもの、数値化できないもの、家庭でしか味わえないものなのだ。
それは餅を搗くのが電動餅つき機なのか、木の臼と杵なのか、という問題にも似ている。そして、餅を搗く道具も、空間も、今の家には用意されていないのだ。
地方合併によって山村の過疎化は再び進んでいる。昨年だけで「人に危害を加えて捕獲・殺処分されたヒグマとツキノワグマは4,615頭。過去30年間で最高を記録した」そうだ(『日本農業新聞』07-02-10)。どうだい?「人類は確実に死に向かっている」だろ。
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