高山社と群馬の養蚕


1/23、「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産暫定リストに選ばれた。製糸場のある富岡市ではお祝いに市民3000人の提灯行列が行なわれたとかで、富岡でこんな提灯行列は戦時中のシンガポール陥落以来という騒ぎだったらしい(笑)。

築100年の養蚕民家に住んでいることもあり、僕らも引っ越し早々この建物のルーツや群馬の養蚕の歴史、桐生の織物について学び始めた。高山社の養蚕法については旧ブログ日記「木の机」に、富岡製糸については同じく「シルクハット」に書いたが、その高山社もまた世界遺産暫定リスト「絹産業遺産群」の中に含まれている。

市報で高山社に関する講演と見学会があることを知り、昨日と今日の2日間行ってきた。昨日は藤岡歴史館で松浦利隆氏(県新政策科世界遺産推進室長)の講演「高山社の創成期について」。今日はその創始者である高山長五郎の生家と、お隣埼玉県児玉町にある競進社の模範蚕室の建物(県指定重文)をマイクロバスで巡る小ツアーだった。

おかげで、群馬西毛地区の養蚕法と古民家の謎が解けた。もともとカイコは「運の虫」と言われるくらい飼育が安定しないものだったが、温度管理、湿度管理によって生産性が高まり、この方法が全国的なスタンダードとなっていった。高山長五郎の考案したのは二階床で養蚕火鉢を焚くことで、下から上に清浄な空気を入れ替えるという折衷方だった。そのための天窓であり、床下の高さが必要だった。取り外しのきく開口部が多いのはそのせいで、西毛地区の古民家はまさにカイコ飼育ための家だったのだ。

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しかし、これも近代になって初めて為されたことだった。なぜなら江戸時代は、農民階級が二階屋を作ることは許されないことだったからだ。しかも、これだけの大掛かりな二階屋を作るには、親子三代が皆元気である時代でなければ建てられない。地域にこれだけのお金が揃うことは極めて稀なことであった。いきなり繭で儲かったのである。

開国して間もなく、まだ機械技術もなく資源の乏しい日本が輸出して外貨を稼げるのは繭と絹糸であった。その金で大砲を買い、軍艦を買い、日本は富国強兵政策を進めていった。列強からの植民地支配を阻んだのは繭のおかげかもしれなかった。繭を育む日本の豊かな自然と、人々の勤勉さと働きがそうさせたのだ。

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富岡製糸場と碓氷社の関係についても興味深いことを知った。当時、「手座繰り」といって、山村の女性たちは繭からの糸紡ぎもやった。繭をそのまま売るより、糸にして売ったほうが高く売れる(およそ倍の値段になる)。そこで、それらの生糸を集荷する農民の共同組織として碓氷社が作られた。その糸の生産量は官営富岡製糸場の3~5倍の生産力があったという。だから、群馬県の婦女子は富岡へは働きに行かなかった。群馬県人の進取気質としたたかさを感じさせるエピソードだ。

講演では活字に書けない話題が聴けるから面白い。天皇家と養蚕のことである。前皇后は天蚕を愛されていたことは知っていたが、現皇后もまたカイコの世話の大好きな方で、しばしば正装のままカイコ部屋に入ってしまい、周囲をあわてさせることもあるという。皇居の中に養蚕室があり、それは高山式の、群馬西毛地区の養蚕民家と全く同じ形のものだそうだ。

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アトリエの養蚕民家


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