朝から水道工事のことで悩む。図面をいろいろ描いてみる。配管をそっくり変えて新しいT字管でつなごうかと思ったのだが、地中に埋設された既設管は動かないので継ぎ手をうまく変えることができない。もし配管に手間取ったら他の2軒に迷惑をかけてしまう。
結局、古い管をそのまま活かして、割れた継ぎ目を針金でしばり上げくっつけることにする。錆びないようにステンレスの針金を買いにいった。そして布やビニールやテープでぐるぐる巻にして、漏水がいくらかでも弱まるよいに補強し、埋め戻した。
いずれまた詰まることがあるかもしれないが、そのときはここを掘り起こして針金を外し、また詰まりをとることができるだろう。
おそらく、このような工事に向いた専用の道具もあるはずなのだが、僕はありあわせのものを使って、なんとか押っつけてしまうことを好む。そこに至るまでに、ものすごく考えるのだが、山で生きる上で、その積み重ねがとても大切なことだと思っている。
オール電化で生まれ育った人は考えるチカラを持てないのではないだろうか。この場所で配管が詰まったらもうお手上げだろう。工事の人を呼び、お金ですべてやってもらうことになる。しかし、いつもお金があるとは限らないし、工事の人が来てくれないときもある。そのときどうするのだろう?
デジタルのパネルで、ボタンひとつで動く便利さは、多くの危険をはらんでいるのだ。生きることの原点である水や火の扱いに無頓着であることが、見ていて恐ろしい。イタルさんを見ていると実に飄々と「ありあわせのものを使って、なんとか押っつけてしまう」という日常に生きている。
それは次に完璧な工事をする前哨なのではなく、その連続こそが、人生そものもなのだ。身の回りにあるもので考えながら、再生・進化していくことが当たり前なのであり、喜びなのである。ところが、学校教育や社会やコマーシャリズムはそれはダサイものだと教え込む。そして、人は感動が得られず生きる屍になっていく。