いよいよ冷えてきた。寒くなると囲炉裏の煙りがいっそう芳しく感じられる。朝日に煙りが光の筋を描く。これもいい。
仕事がたまっているので早起きする。
まず、上がりかまちと囲炉裏部屋を雑巾で拭き込んで、囲炉裏に火をつける。
最初はスギの枯れ葉で、その上に小枝を載せて、だんだん太い薪をくべる。太いといっても、直径は5cm以下だ。
お湯が沸いたらミルで豆を挽いてコーヒーをいれる。ふー。ウマイ・・・。
ふと、土間をみると、しばらく前に花瓶にさした野菊に朝日があたっている。それでデジカメを取り出してパチリ。
薪暮らしといっても、電気コタツや灯油の風呂釜は使っているが、囲炉裏はもう暮らしにはなくてはならないアイテム。慣れたら、これほど便利ですばらしいものはない。
それにしても、なぜこうも簡単に日本人は囲炉裏を捨ててしまったのか?
昨日参加したイベントの雑木林には、洋風の小屋と、インデアンティピーがあって、小屋では火はおこせず、ティピーで火を焚くのだが、石の炉なので料理がしにくい。和風の小屋で囲炉裏をつくればよかったのに。
数千年も続いた囲炉裏文化が消滅したのはたかだか数十年前のこと。
囲炉裏の消滅には、高度成長神話もあったのだろう。
「あんたんとこ、まだ囲炉裏やってんの?」
とご近所から後ろ指を差され、子供が学校にいくと
「オマエ、煙臭いぞ」
などといじめられたのは容易に想像がつく(ちなみに、僕らのコペンの車内は囲炉裏の匂いがするそうだ/笑)。
ついでに、家電メーカーのセールスマンが来て
「まだこんなことやってんですかぁ」
などど電気炊飯器のカタログを置いていったりする(たぶん)。
さらに法改正(改悪?)。建築基準法、消防法による規制。
そして、日本人と森とのつながりは、急速に消滅・・・。
いま、薪ストーブがちょっとしたブーム。でもあれは、ちょいとツマラン。
薪ストーブは「部屋を暖める」という機能にあまりにも特化してしまった。炎を使う料理ができない。
それに薪の消費量だが、薪ストーブは囲炉裏の五倍、いや囲炉裏は小枝すら戦力になることを思えば、十倍は薪を消費する。
囲炉裏のために薪を集めるのと、薪ストーブのために薪を集めるのとではその労力に雲泥の差がある。囲炉裏のほうがずっと簡単。風の強い日の翌日、森に落ちた枯れ枝はすべて囲炉裏の薪になる。しかも、枯れ枝だから乾燥させる必要がない。一方、薪ストーブ。広葉樹の木を伐採して、割って、積んで、最低でも1年は乾燥が必要。子供にはできない芸当だ。囲炉裏の薪集めなら子供の仕事になる。
僕らは薪ストーブも使う。あれはあれでいいものだ。
でも囲炉裏があってこそのスペアーだ、という位置づけになってきた。
囲炉裏と薪ストーブでは、その家の構造もまったくといっていいほどちがってくる。前者はすき間風が入ってきていいような部屋、上部に煙り抜きが必要。後者は高気密高断熱が理想だろう。
囲炉裏は裸火なので意外に温かい。が、背中が寒いのは当たり前で、そのために背中や腰が冷えない服を着る。和服のカタチはとても理にかなっている。
ちなみに、薪ストーブでは部屋が暑過ぎて、服を脱ぎ出してしまうことがある。囲炉裏はこれがない。薪を燃やしすぎるということがありえない(危険だし)。僕は昔から、石油ストーブなどで暑くなりすぎた部屋が好きではなかった。あそこから外へ出たときのひやっとする違和感が、子供の頃からとても嫌いだったのをよく覚えている。
今では、高気密の部屋にいくと、それだけで気分が悪くなってくる(最近の住宅展示場に行って体験してみた)。空気が死んでいる感じがするのだ。囲炉裏は温かいわりに空気が爽やかで、そういう意味でも心地いい。囲炉裏は適度に使うなら、健康のためにもすばらしい装置だと思う。
それから、行儀は悪いが、足の裏を囲炉裏の炎にかざして温まるとすごく気持ちいい。足湯のような効果でほっかほかになる。手のひらや足の裏を暖めると身体全体が温まる。
昨日の雑木林では、伐採残滓(小枝など)が無用の長物として山のように捨てられていた。それが無惨に見えて残念でならなかった。
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