暮れに搗いた餅をきれいに食べ尽くす。今年も常温で保存したままカビはほとんどつかなかった。とにかく、アトリエの冬の食の中で、この杵搗き餅の美味さは何度も書いてきたけれども、毎回のことながら食べる度に感嘆するほど美味いのである。時間が経っても、その味はまったく衰えない。
市販の機械餅とどこが違うのかというと、まず焼いたときの表面のカリッとした部分。ここが厚くて、食べごたえがある。そしてその中身は非情に滑らか(まるで絹のように!)で、しかも粘りがあってよく伸びる。
これらは焼きたてを食べたときの食感だが、これを雑煮や汁粉などでふやかしたときもまた、風味となって面白い。そして、とにかくその餅の甘みがすばらしいのだ。
これは、水の美味さもあり、炭火で焼いていることもあるのだろう。アトリエでは日常に炭火があるので、炭で焼くことはごく自然に行える。魚や肉を焼くのとちがって、餅は煙や臭いがでないので、室内で火鉢で焼ける。これがまた楽しいのだ。
お供え餅は手で割って天日で干してから、油で揚げてかき餅にするとばかり思っていたが、そのかけらを火鉢でこんがり焼いてそのまま食べるのも実に美味しい。表面のカリッの部分がその小さな破片の場合際立つ美味しさなのだ。
さて、茨城の水戸出身の私としては、餅といえば「納豆」「塩引き(焼き鮭)」「だいこんおろし」を忘れてはならない。焼き餅にこれらをまぶし、はさみながら頬張る。これがまた、餅食いの醍醐味なのだ。
山村の冬は寒くて貧しいイメージがあったが、この餅一つとってもすばらしい味覚だし、漬け物やどぶろくなど発酵食品の目の覚めるような味覚がある。しんしんと冷える中で囲炉裏の炎を見ながらこれらを味わう楽しみは発見だった。そして秋の収穫である新豆を水でもどして食べるのもいい。
餅、発酵食品、新豆。冬の間、この三つの楽しみを味わいつくしているうちに、やがて土がゆるみ、フキノトウが顔を出してくる(忙しい山菜の季節となる)というわけである。
ところで囲炉裏を使っていると頻繁に敷地の落ち枝拾いに歩くことになり、それが敷地の掃除にもなり見回りにもなる。またそこで新しい自生野草の発見があったりもする。そして当然のことながらむやみにゴミなど捨てるはずもなく、最小限の手入れはできていく。
このごろは拭き掃除の快感をおぼえてしまい、この寒さの中でも毎朝私は囲炉裏周りの雑巾がけをしている。囲炉裏は掃除しないで使っていると埃だらけの惨めなものになるが、雑巾で磨きながら使うと侘び寂び際立った茶室になる。
朝の水は冷たいので、まずチビかまで紙ゴミを燃やしながら湯を沸かし、それをバケツにとって送雑巾がけに使っている(囲炉裏ではゴミは燃やさないようにしている)のだ。
餅の話から脱線したが、「囲炉裏を使うことでマメに掃除する」ということと、現在の「電化されたダイニングキッチンと電気掃除機の関係」ということを考えてしまうのである。後者は自然の系からまったくかけ離れた暮らしぶりなのだが、間接的に自然をかなり痛めつけているのは確かなのだ。
それにしても、この私が自ら雑巾がけをやるのだから(小中学校時代の掃除の時間以来かも?)、人間変われば変わるものである。
餅の話であった。餅よさらば、また来年!