魂の無い狂人の手によって


神流川の支流にて


田んぼの手伝いで籾(もみ)付きの米を貰ったので、下の町に住むIさんのところに持って行って、籾を取ってもらった。Iさんの家は鮎川の流域で、位置的にはアトリエの背後にひかえる御荷鉾山の、反対側にあたる。

鮎川は神流川よりはずっと小さい川だが、その名の通り昔は鮎がたくさん上ってきたらしい。ちょうどIさんの家の畑の下が崖になっており、そこを鮎川は大きな深みを作って流れている。すぐ近くには5年ほど前に温泉施設ができ、営業している。このあたりは塩泉脈があり、ここの湯も源泉は塩辛い。

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荒廃する小河川


そこだけを切り取ればすばらしい景色なのだが、周囲は人工の護岸だらけで、対岸の河原には昨年の台風で流れてきた大量の石砂が堆積していた。上流にあるゴルフ場にもホテルが併設してあり、温泉に入ることができるが、このゴルフ場の造成時に大量の土砂が流れ、鮎川のアユが激減し、漁協がゴルフ場側に補償金を貰っているという前歴がある(1988年の集中豪雨/『日本農薬事情』河野修一郎 p.142)。

鮎川はショートカットの河川改修とそれに付随する護岸工事があって、川の自然度はかなり削がれてしまった様子だ。カーブの水流の当たるところにはテトラポットが置かれているので、子供たちが水遊びするには危険な場所になってしまった。そして最上流をみると砂防堰堤が大量に造られている。全国各地でみられる典型的な中小河川の荒廃の姿である。

誰が悪いのか?


景観が悪くなり、魚がいなくなり、子供の遊ぶ姿も消えた。川には浄化されない化学物質を含んだ汚水が流入し、ゴルフ場や農家からも除草剤等が入り込む。この川をみて、昔より今のほうがいいという人はいないと思う。実際、この工事に手をかけた企業だって、これを本当に善かれと思ってやったわけではないのだろう。会社として食べていくために仕事を請け負ったまでである。

すると、その公共事業の出どころは、いったいだれが、どのように計画したのだろうか? そこには政治がらみの利権があり、金に心を奪われた亡者どもの世界を探らねばならなくなる。が、かつての為政者は自然を破壊するだけの河川改修などは絶対にしなかった。武田信玄や加藤清正の例をみるまでもなく、それは水害をなくすため、米の収量をふやす用地を確保するための改修である。すなわち、民衆を生かすための改修(改善)である。

そんな日本人がどこでどう変わってしまったのか? よほど腹黒い人でないかぎり、こんな現在の川の姿を決していいと思わない。まわりの誰を見渡しても「昔の川はもっともっと美しくてすばらしかった」と、うなだれて言う人がほとんどなのである。

河川に対する考え方の変化


土木工事の観点からみれば、川に対する考え方が変わってしまったことも大きいだろう。昔は川をなだめすかして、小規模の洪水は被害を受けてあたりまえと考えたが、今は川を強固な護岸や堤防で固め、単なる水源や排水路を考えている。そしてそれによって生まれた用地を、宅地や工場用地などにしている。

船運(川や水路を利用して荷物を運ぶ)が消えたということも大きい。船はゆったりした流れが有利だから、曲がりくねって流程が長くなったほうがいい。また船運があると常に「川を手入れする」という気持ちもおきる。そんな時代には川に生き物がたくさんいて、川の浄化作用も大きかった。そして、洪水時の泥は肥料になった。

日米構造協議と大店法


一方、事業費の根本原因をずっと探っていくと、「日米構造協議」というものに突き当たる。「日米構造協議」、これは表向きは貿易不均衡の解消を目的としたものだ。具体的にはアメリカに「日本は91年より10年間で公共投資を430兆円に拡大せよ」と命令された。それを国債や地方債で行えと(つまり借金)要求されたのだ。

年間国家予算が70兆円の当時、430兆円もの公共投資は驚愕モノだが、結果としては公共事業費は630兆円(13年間で)にまで膨らんだ(『ファスト風土化する日本』三浦展著 p.120/『風景再生論』船瀬俊介著 p.141)。仕事に飢えていたゼネコンは喜んだ。もともと土建国家。かくして山を削り川や海辺をコンクリートで覆い、高速道路を作りまくり、無意味なハコモノで日本列島は埋め尽くされ、日本の自然は加速度的に破壊された。

日米構造協議には大規模小売店法(大店法)の改正も含まれており、郊外店が加速度的に増えて、自然破壊をさらに深いものにした(大店法は1974年に施行されたもので、既存の商店街を保護するためのものであった。大型店が新規に出店するときは、10年も20年もかけて大型店と商店街の利害が調整され、ようやく出店が許されるというものであった。ところが80年代から欧米企業の出店を容易にする規制緩和が始まり、91年には大店法改正法案が国会に提出され、2000年には事実上消滅)。

外圧と泡銭(あぶくぜに)


つまり、アメリカの外圧で、国内の借金を公共事業に当てたのだが、これは単なる貿易不均衡の是正のためだけではなく、アメリカが日本支配のために、日本の国力を弱体化させるための政策であったとみる人もいる(前出、船瀬氏)。たとえば江戸時代の「参勤交代」を考えてみるといい。徳川幕府は地方の藩の力を削ぐために、参勤交代という制度でわざと散財させた。これによく似ている、と。

財源である国債や地方債(つまり借金)とは魂の無いカネ、すなわち泡銭(あぶくぜに)であり、当然ここに腐敗が生じる。ならば、最初から為政者が悪だくみしていたのではなく、押し付けられた制度によって悪だくみが始まったといえる。しかし当のアメリカ側の政策推進者は何を考えているか? こんな日本の美しい自然や文化を破壊して楽しいのだろうか? 悲しくないのだろうか?

人は善なる存在で生まれてくるのに


かつて子供を3人育てるとき、保育園に12年通った経験があるが、この世に生を受けた子供というのは、基本的に「善なる存在である」と感じたものだ。その政策推進者もまた、子供の頃は善なる考えに満ちていたに違いないと思う。どこかで変わり、悪だくみが始まったのだと思う。この「押し付けられた制度によって悪だくみが始まった」というところが大事である。

そうこうして考えてみると、これらの破壊は決して日本だけの話ではないのである。むしろ日本は遅れているくらいで、地球規模では実に多くの場所で、多くの国で、このような腐敗と自然破壊が起きて、現在に至っているのだ。それは、ある時代にはアメリカ主導ではなくヨーロッパの国であったりしたこともある。

風土に根ざした文化と自給自足、それを生み出してくれるかけがいのない自然というものを、計略的に破壊していく。ひょっとしてその奥には「魂の無い狂人」が潜んでいるのではないか?

もはやそこまで考えないと謎は解けない。


追記:14拍手をいただいた人気記事。共感者が多いことに勇気を持ちます。新ブログ移行に当たって見出しを設け、読みやすくしました。


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