以前ブログにも書いた前橋の大崎商店で仕上げ砥石を買った。以前から使っていた仕上げ砥石が凍結で割れてしまったのだ。厳寒期に濡れたまま外に出しておいたのがいけなかった。
ご主人お勧めの「北山」と銘の入った人造の仕上げ砥石。値は張るが、研げない砥石は屑同然というのを経験したことがあり、買うならまともなものを、と迷わず購入。
さっそく包丁からノミ、彫刻刀、切り出しまで研いでみた。いやーすばらしい。木工の基本はいい道具。それがないとうまくいかない。そして、いい道具の基本は研ぎ。
さて、丸太を割ってはつって板採りした6枚をお風呂の蓋にする、という仕事が進行中。
前に作った鍋ぶたの方式で、相じゃくりに蟻ほぞがよろしいかと・・・。
しかし、長さ1mの板が6枚。3枚づつを一組にして2枚蓋にするとして、しゃくりが8本。電動工具もなくそんなことができるのか?
やってみました(笑)。
まずは削る場所のマーキング。
その線に沿ってガイドを当て、胴付きノコ(刃の細かい細工用のノコ)で溝をつけていく。このノコはYKからの借りもの。本当は道具の貸し借りは御法度なのだが。
もう一面にもノコ目を入れる。
ノミで荒くはつっていく。まずは半分。
バリバリ剥がすにはマイナスドライバーなんでのも有効です。
ひっくり返して小さなノミで角のエッジを立てていく。
彫刻刀を動員したりして、左右から攻めていきます。基準線よりも深く彫りすぎないこと。それをひたすら遵守しながら、いかに道具を痛めず速く美しく彫れるか、という戦いが続く。
できた。1mのしゃくりを1本彫るのに要した時間は1時間。未熟なもので・・・
こうして前日から今日の夜までかかって8本の相じゃくりを終えた。
電動工具ならおそらく数分で済んでしまうであろう。しかし、手でやってみることも必要だと思うのである。
法隆寺最後の宮大工と呼ばれた西岡常一氏はこう言っている。
木一本伐るにも、自然に対して感謝する気持ちがなかったらいけませんな。
電動工具ゆうのが出てきて便利がられておりますな。昔は手斧(ちょうな)使ったところを、電気ガンナでブーンとやってしまいます。硬い木でも柔らかい木でも、ねじれた木でも、みな同じでんな。
横向いてても大丈夫、話してても木は削れていきます。
ところが手斧やったら、そんなわけにはいきません。自分の足に向かって刃振るんですから、よそ見してたら自分の足を切ってしまう。向こうずねぶっとばしてしまうんや。
電気ガンナと手斧使うんでは、人間の気持ちが違う。電気つこうておったら、仕事に身がはいらん。手斧の刃は自分の足のほうを向いているんでっせ。使うのに油断もスキもあったもんやない。
しかも手斧は、力を入れな切れんでしょ。それもただ力まかせやなく、チャッとためて、切ったら止めなあかん。ためる力がいる。
電動ガンナは回転や。回転というのは削るんやなくて、チギッてるんや。あんなもん切るのとは違うわ。
それが、こういう手斧やったら、ほんとうに刃で、スカッスカッと削る。
仕上げに「ヤリガンナ」つこうたら耐用年数が違う。長いこともちますのや。
電気ガンナで削ったものとヤリガンナで削ったものを、雨の中にさらしておいたらすぐわかるわ。電気ガンナで削ったものやったら1週間でカビが生えてくるわ。そやけど、ヤリガンナやったらそんなことありませんわ。水がスカッと切れて、はじいてしまいます。
電気ガンナは回転で繊維千切ってるんですから、顕微鏡で見ましたら、毛布みたいなもんでっせ。けばだっておって。だから水はいくらでもしみこむわな。
電気の道具は消耗品や。私らの道具は肉体の一部ですわ。道具を物として扱いませんわ。
それも道具も自分だけの物やと考えるのは間違いです。形ひとつにしても今決まったんやない。長い長い年月がかかって、使うにはこの形がいいと決まったですから。『木に学べ』西岡常一(小学館/1988)
西岡氏に言わせると、飛鳥時代の建築は、外の形にとらわれずに木そのものの命をどう有効に生かして使うかを、考えているという。だから、見るものに対して、建造物が訴えてくるものがまるで違うという。
何度も読んでいる本なのだが、あらためて読み返してみたのである。
この中でもとくに感銘を受けるのは冒頭の、
「木一本伐るにも、自然に対して感謝する気持ちがなかったらいけませんな」
という一節である。都会にいても山にいても忘れてはいけない「自然に対して感謝する気持ち」。これからは、この言葉からすべてが再構築されるんだろうな。