最後の目的地、奈良法隆寺へ。私は4回目の来訪だ。朝8時の開門を一番で入った。毎回発見があるが、今回は回廊が美しかった。この格子戸から漏れる光の美しさは朝しか味わえない。
ふつう、お寺の建築にはごてごてと彫刻だらけだが、法隆寺には装飾的な要素はほとんどない。骨太で、屋根の軒の深さと反りが圧倒的だ。構造美が迫ってくる。この彫刻的感動は、写真などでは到底伝えることはできない。
回廊の棟木はまず三つの支点で受け、それを二又で加重を分散し、曲がった梁で受け、左右のエンタシス柱に載せている。とても合理的で、わずかなムダも遊びも一切無い。ぎりぎりの緊張感に溢れながら、爽やかな大空間を実現している。
ところが、よく見ると部材はかなり不揃いなのだ。なぜかというと、この時代にはノコギリはなかったので、ヒノキをクサビで割って斧でハツって角材を作っている。しかも槍鉋で仕上げているので、均一な部材を揃えることよりも、木の質と個性を尊重してそれぞれの材を作っていった。
不揃いを組み上げるにはものすごく手間がかかる。だけど、出来上がったものは美しいだけでなく、強靭でいて、とても優しく、暖かみがある。ちなみに回廊には後世の補修があり、構造が変わっているところがある。こちらは直線的で硬く、バランスが悪い。
石積みと版築の塀。
壁材は地物の粘土と藁や麻。小石が混じっている。
夢殿の扉。
現在の木造住宅は、強制乾燥して狂いを取り去った木を、コンピュータ制御の機械で加工し、金具で繋いでいる。木を化学合成のプラスティックと同じに扱っているのだ。そして屋根の軒を出さず、木を表面から隠すことで雨や日照を凌いでいる。
それは冷暖房が充実したので可能になったこともあるのだが、その中に入ったシステムキッチンが何十万円しようとも、それはすべて張り物の偽物なのだから悲しい。壁の模様さえも偽物、そしてそれらはやがて燃やすこともできず、みな粗大ゴミとなる。
木は表面に出ることで呼吸し、長もちする。石や土は何度でも使い回しができる。藁や無垢の木は土に還る。私たちは一度、法隆寺に戻る必要がある。江戸や鎌倉ではダメだ、飛鳥まで戻らねばならない。