薪ストーブ3日目。午前中から燃やしつつ、スギのテーブルでPCを打ちつつ仕事。蓄熱されてくると燃えがよくなり、煙突の引きが強くなりすぎる。薪の食い方も早いので、ダンパーを導入したほうがいいかもしれない。メガネ板はぜんぜん熱くないので自作は大成功。ただし薪ストーブの下部はレンガがかなり熱くなるので備前焼の欠片を敷いて温度を分散することにした。背熱板はいま検討中。とりあえずケイカル板を立てかけて遮熱している。
ヤカンで湯を沸かしてコーヒーを飲んだり、鍋をかけてポトフを作ったり・・・
パンを天板に載せればすぐにトーストができる。
仕上げはストーブの熾き火にフライパンを突っ込んで簡易グラタン。
それにしても薪ストーブは快適だ。しかし囲炉裏に比べて恐ろしく薪を食う。この快適さを求めて人類はここまでひた走ってきたといえるのだろう。囲炉裏と薪ストーブとの間には大きな溝がある。日常、囲炉裏で細い薪を燃やしていると、薪ストーブに放り込む太い薪の年輪の重なりをみて、「これでは木の消費量と木の生長量が合わないな」などと思ってしまう。
ただ、現在は木が山に余っている特殊な時代なので、薪を使うことがあたかもエコであるかのように奨励されている。薪ストーブの先には化石燃料の現代文明があるが、こちらも濃縮された植物の遺骸を燃やしているのであって、薪ストーブの膨大な木材消費と変わらないか、CO2放出においてはそれ以上の浪費をしていることになる。
動物は暖房を使わない。自分の体温で毛皮で暖めるのだ。私も若い頃は同じようなことをやっていた。机で仕事をするとき、座布団の上に湯たんぽを置き、その上に足をのせて足から腰まで毛布でぐるぐる巻きにする。上半身はダウンベストを着ると腕の動きに支障がないので、それでイラストの仕事をしていたものである。ストーブはまったく使わず日常はコタツ。そんな生活を何年もしていた。
もちろん薪ストーブには大きな憧れがあったので群馬で山暮らしを始めたときまっ先にやってみた。しかし薪集めが大変なことに気づいた。次の年から始めた囲炉裏が、あまりにも薪の消費量が少ないことに驚いたものである。しかし、囲炉裏は煙いし灰ほこりで汚れる。そこに電気や石炭や石油やガスがやってきたとき、囲炉裏はいとも簡単に捨てられてしまった。
電気や石炭や石油やガスは薪ストーブと同じである。
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そもそも薪ストーブの発祥はベンジャミン・フランクリン(1706- 1790)の発明になる「フランクリンストーブ」だそうだ。米国独立に大きな功績を残したフランクリンは100ドル札にも肖像があるフリーメイソン。デーヴィッド・アイクによれば、彼は悪魔教グループ「Hellfire Club」の一員であり、のちになって子供六人と大人四人分の死骸が、ロンドンの、かつてフランクリンが住んでいた家の地下から発見されたという。これらはフランクリンの住んでいた当時のものと判定されている。
私はなんとなく、この悪魔教の人たちが火と煙の秘密を知っていて、それを庶民から離したかったのではないか? などと勘ぐってしまう。異常ともいえる禁煙ブームもなんとなく変だ。囲炉裏を排除しようと動き出したのはGHQであったのも示唆的だ。マッカーサーもまた、高位のメーソンである。
裸の火と煙には、人間の精神の回復にとって非常に重要な物質・要素が隠されているのではないかと考えている。