明日から九州へ旅します。もともとの目的は10/14(金)福岡マリンメッセの浜田省吾ライブなのですが、パーマカルチャーネットワーク九州&トランジション南阿蘇の山口さんが講演会+ライブを組んでくれました。
16日は熊本県の阿蘇高森「阿蘇フォークスクール」で講演します。新著の出版記念というふれこみですが、今回は紀伊半島の災害について人工林被害の詳細や、群馬での集落支援員の話しをします。お近くの方、いやもちろん遠方からでも大歓迎ですが、お待ちしています!
山口さんが古民家を改装中で、囲炉裏を造られたとのことなので、夜の宴会も楽しみ!!!
それから、18日は南小国の「野風(やふう)ムラ」に泊まりに行きます。この施設(コミュニティ)を主宰する河津さんは2003年4月に私の会が主催した「福井県の鋸谷さんの山と家の見学会」に来てくれた。鋸谷式間伐の実践者でありセルフビルドや無農薬の米づくり、陶芸もしている。あれから8年ぶりの再会ということになる。こちらも楽しみである。
いい機会なので、そのときの「’03福井県の鋸谷さんの山と家の見学会」の日記(抜粋)を、ここに再録しておこう。
▼未来樹2001・福井の旅(2)/2003年4月26日
朝食を食べて移動。昨日の魚のアラ炊きの炊き込みご飯も出て、なかなか秀逸。今日はいよいよ鋸谷さんの家を見る日だ。
その前に鋸谷さん所有の六路谷の山を見る。ここも取材に来るたびに見せてもらっているが、広葉樹が伸び、森の表情が変っているのを感じる。ここでも、「従来の林業のやり方」と「鋸谷さんのやり方」が尾根をはさんで隣同士にある林分があり、一目瞭然で下層植生や育林木の育ち方のちがいがわかる場所があり、参加者は大納得なのであった。
対岸に移動して鋸谷さんが「わが家の宮域林」と自慢する、50年生の杉林へ。きれいに枝打ちされた杉の下に、広葉樹が大きく育っている。そして鋸谷さんが20代のときに植えたアシウスギの伏条(ふくじょう)更新、3代続けて下枝が根付いた姿を見る。裏日本のスギは皆このような性質をもっているのであり、雪がなくても枝の重みで枝からの根が活着していくのだ。こうなれば植林の手間からも解放され、治山にも大きく貢献するはずだ。
また、このような伏条更新のスギは花をつけることが少ないという。枝分かれから根を活着させるという繁殖戦略をとれば、実をつける必要がないからだろう。自然はうまくできている。これは花粉症対策にもなりはしないか?
末端のどうでもいい林業の研究報告が山とある中、なぜこのような本質的に重要な研究がないがしろにされているのだろうか? 伏条更新は「下枝払い」の際、注意して地面に近い枝を残すようにすれば、簡単に仕立てることができるのだが、同時にクマ剥ぎなどの獣害対策にもなるだろう、とのこと。鋸谷さんの旧宅のある高浜町の六路谷(ろくろだに)は福井県の最西端にあり、谷津田の沢をつめれば峠の向こうは京都府になる。以前の旅日記にも書いたが、この家は築70年。若干23歳の天才棟梁が建てたこの地区では初めての2階建ての家である。鋸谷さんは当初この家の移築を計画し、構造材の特殊な組手(通称「地獄栓」と呼ばれ、大黒柱と梁の接合部にある)の解体法を棟梁存命中に聞いたりしていたのだが、
「できればこのまま残してほしい」
という棟梁の声もあり(この棟梁、80歳を過ぎて京都府から訪ねてきたのだそうで、完成当時のまま鋸谷家が住まわれていることを大変喜んでいたという)、いまここに建っている。
内部には曲がったままのマツ梁が複雑に組まれており、この量感のある緻密な建築が、23歳の人間の指揮のもとに組まれたとはとうてい信じられない。しかしミケランジェロのピエタ像も23~25歳の作品というから、ありえないことではない。この棟梁もきっと何か大きな決意があり、プレッシャーに打ち勝って、この建築を完成させたのだ。依頼主と期限が決められた仕事には、大きな責任がのしかかってくる。しかし偉大な創造には、そのような心理状態がつきものなのだ。内部の説明を受け、アカマツの梁の話になる。全国的なマツ枯れの被害でアカマツの大樹は激減した。ところでマツ枯れはなぜおきるのか?
アカマツは明るい痩せ地を好む種で、昔のように下草や落ち葉を常に収奪していた環境に適応していた。だから、エネルギー革命と化学肥料の登場によってマツ林が放置されれば、マツが衰退するのは当たり前なのだ。それをマツクイムシ問題に摺り替えて薬剤の空中散布をやっていたというアホらしさも、戦後の林野行政最大のタブーである。桃太郎の民話には「おじいさんは山へ柴刈りに」というフレーズがある通り、昔は生活のために箒できれいに掃いたように山から木質物質を収奪していたのである。ハゲ山も多かった(ちなみにここで言う「柴」とは細い雑木のことであり、これは田んぼの肥料として泥の中に差し込んだりしていた)。
柴刈りの習慣がなくなれば当然ながら広葉樹は大きく育っていく。マツは暗い環境は苦手だからスカスカ状態で林をつくる。そこには常に広葉樹が入り込む素地が生まれる。広葉樹の落ち葉が腐葉土をつくると地面に養分が増える。衰弱した木や、必要以上の栄養で太った木には虫が入ることが多い。こうしてますますマツが衰退する。ようするに、人為的に遷移を止めていたのが「マツ山」だったのだ。マツクイムシがマツを枯らしたのは確かだが、数千年にわたる人為的な影響を変化させたことによって、不健康なマツになってしまったことが、マツクイムシを蔓延させた根本原因だったのだ。
しかし、マツは枯れても広葉樹がバックアップするのでマツ枯れによる土砂崩壊は大変に少ない。
アカマツはねばりがあるため民家建築の横梁材によく使われるが(鋸谷さんの旧宅は使われている材の6割がアカマツ)、現在はマツが品切れ状態で、太い梁は輸入材のベイマツにほぼ独占されている。
横梁材には大径材が必要だ。木は縦荷重には強いが、横荷重の負荷にはたわんで木が負けてしまうからだ。それに耐えるには大断面が必要なのだ。
すなわち国産材で長持ちする家をつくるには、現在植えられているスギ・ヒノキを大きく太らせ、横梁材に利用することが重要なのである。このような大径木の森づくりが今までできなかったのは、戦後の木材需要の要請に応えた林野行政によって、40年生以上の森が作りにくいお金の動き方をしていたということもある。しかし、ようするに伐り捨てて密度調整をすれば、自然の力が木を太らせてくれるのだから簡単である。植え付け・下刈りという最も手間のかかる作業を終えた山が、わが国には1000万ヘクタールもある。その多くが全国で線香林に成り果てようとしている。これは材としての価値ある森を見捨てるだけでなく、環境も破壊していることになる。ここに強度間伐か巻き枯しを施すだけで、草が生えて環境が回復し、木が太り始める。これは、温暖多湿の日本のありがたい気候風土のおかげである。
鋸谷式の森づくりは、この自然の力を「自然を一方的に収奪することなく」、最大限に活かす方法と言えるだろう。また荒廃した山林を立て直すには、鋸谷式間伐の方法が最も手間が少なく、時間的にも最短距離なのである。
▼未来樹2001・福井の旅(その3)★’03.4/27
さて、食事の後はいよいよ鋸谷さんの新築の家の見学である。実は前日民宿へ移動する際、全員で立ち寄って外観だけは眺めて、見学者のどよめきが上がったのであるが、この僕もガレージの建築を見ていただけで、その他の視覚的情報はまったく鋸谷さんからはいただいていなかったので、感動と驚きも大きかった。
新邸の形は以前の取材で見せていただいたガレージと対称型で、合掌づくりをイメージさせるシンプルな切妻屋根である。しかし構想材はかなり太く、その木組みからダイナミックな美しさが迫ってくる。また、土台周囲には石が敷かれ、建物全体の視覚的な強さによい効果を与えている(この石は湾口工事の廃材を貰ったのだそうだ)。
木材はすべて鋸谷さんの所有するの山のヒノキである。骨格となる柱や梁にはの太い木を選択して(85年生)7本伐ったが、それ以外は全て密度調整で劣性木を間伐した木だそうだ(といっても直径はぶっといですぞ)。材料費はタダだけど、伐出にはかなりの金額がかかったとのことだ。しかし今まで僕が数多く見てきた、いわゆる木造の贅を尽くした家、というのとは全く印象がちがう。無節の柱や柾目の板などの「役物」を使うという発想ではではない。しかし、木の使い方は繊細で、製材された木の中から節や木目の調和を選び、材料の良さを最大限に引き出している。今回の大工さんは地元の50代の方だそうだが、木の使い方に鋸谷さんは100パーセント満足できたそうだ。
内部は太い大黒柱が2本。屋根裏の構造も複雑で楽しく。天窓もあって階段の壁にはその光が美しい縞模様を落していた。
リビングには薪ストーブ。ソファーもよく似合っている。福井の冬は日が差さず、そのための室内での洗濯干し場の工夫も見られる。土壁の色も柔らかだ。こまい用の竹は鋸谷さん自身で全部伐りに行ったという。木へのこだわりから壁まで木にすればいいかというと、それでは見た目にうるさすぎて落ち着かない場合が多い。土壁と木の相性は視覚的にも優れている。「いやー、凄い凄い」と見学者は声をもらす。現代住宅のできる若手設計家とのコラボレーションとはいえ、鋸谷さんにこのようなセンスや家づくりの思想があることに僕も含め皆が驚いている様子。
そう、鋸谷さんって、だたの「間伐の人」じゃないのである。それに「鋸谷式間伐」って単なる「環境林づくり」とすぐに思われてしまうのだが、実は育林に対する深い内容と、現代の家づくりまできちんと射程に入れたものなのだ。とまあ、こまごまと感想を並べてもしょうがないから写真を見ていただくとして、ついでに新築見学会のために作ってくれた鋸谷さんのレジメ(図面入り)からそのタイトル部分と要約を抜き書きしてみよう。
●「木で家を立てる──私の場合の工夫とコスト(鋸谷茂)」から
・太い木で長持ちする家……木の家は長持ちするがそれには太い木を使うことが重要で、そうすれば間取りの変更もまたやりやすい。
・節が気にならない家……天井板が無節材(とはいってもプリント合板がほとんど)だとどうしても柱にはバランス的に無節材が好まれる。しかし構造材の木組みの見える家なら節は気になず、太くて安い木を使うことができる。
・曲がった木の活かし方……昔のように曲がった木を使った複雑な仕事ができる大工は少なくなった。しかし今日でも広い間取りに使う程度のことはそれほど難しくははない。曲がった木はそれだけで芸術的な空間を生む(しかし「曲がり木の墨付け3倍」という通り加工手間の点から高くつくのは確か)。
・間取り変更自由自在の家……現在の木造在来工法の家では、柱の位置によって間取りが決まり、その柱には2階からの過重がかかっているため間取りの変更ができない(鋸谷さんの旧宅も田の字型の構造であるため新築当時の間取りのまま暮らしている)。新居は8間×4間半(ただし鋸谷さんの家の1間は=2m近いモジュール)の家の中心に2間の間隔をあけて2本の大黒柱を立て、4間半の梁を4本使って広い空間を確保。つまり、大黒柱以外の柱には力がかかっていないので、自由に間仕切りを変えられるのだ。いくら家が長持ちしても、100年の間にはライフスタイルが変化するものである。それに対応できなければ、若い世代が新たな家を造って出て行ってしまうことになる。
・木造建築の魅力は木組の構造美……最近の木造建築は大壁工法が多く、木造建築の最大の見せ所である木組みの構造美を隠してしまっている。内外装とも鉄筋コンクリートの家と変らないのだ。これでは消費者が木造文化から離れるのは当たり前。小さな建造物であっても、「何を見せ、何を隠し、何を機能させるのか」が大切で、それが建物の魅力となる。機能だけでなく五感に訴えるものがなければ、木造住宅が時代と一緒に進むことはできない。
・贅をつくした家よりも、満足いく家──メインになる木を自木で……鋸谷さんの家は自分の山の間引き材を使っている。テーブルや玄関も自分の山の枯れ木(たまたま自分の山に生えていたチャンチンモドキの巨木)で作った。よい材ばかりではないが、節や曲がりや丸みがいい味わいを出している。山を持たない人も自分で間伐・枝打ちした木を使うことは可能だし、家を造らない人も家具に取り入れることができる。山と直結している感覚が、格別な思いを生む。
・人は家を建て、家は人をつくる
ここは鋸谷さんの家造りに対する思想的な部分だ。木造住宅の木組は家族や社会の仕組になぞらえることができるという。柱は「人」であり、それを繋ぐ梁は「情報」を、そして木の材質か大きさや形は「人の個性」を表し、また木組みの交点は「人と人との交わり」を表す。木造の家に住む人は無意識のうちに家庭や社会の規則性を学び、育っていく。構造が生み出す規則性は、自然の法則の反映でもあるわけだから、納得である。大黒柱にケヤキが使われるのには意味があって、ケヤキは幼いときは柔らかで曲がりやすいが、成長すると直立して硬く腐りにくい木になる。これを男の子の成長を表す木として大黒柱に使われているのだそうだ。ナルホド!(大内正伸:記・旧ホームページ「日の出日記」2003.4.26-27より)
以上。
この旅で野風さん(河津さん)が、鋸谷さんの山の木を巻き尺で(直径を)測っていたのが印象に残っている。あれから8年。大分南小国の野風さんの山はどうなっているのだろうか? また古くからの自然農の実践、その見学も楽しみである。
帰りは別府で温泉三昧、それから高知に渡り、「沢田マンション」を見学する予定。いろいろと、レポートをお楽しみに♪