再び握り寿司考、アイヌの米


群馬の山暮らしから四国に引っ越して、そしてこのアトリエで自由に料理できるようになり瀬戸内の様々な魚を食べる機会に恵まれて、「米と魚」はつくづく相性のいい食材なのだな・・・という感を深くしている。

刺身を単体で食べながら飲むのもいいが、刺身には米飯もまた合うのである。そしてにぎり寿司にすると、刺身よりもよりふくよかに魚の風味が立ってくる、味わえる。

昨日のにぎり寿司などいい例で、6人で5合という米を完食してしまった。たぶん僕は1合は食べていないので、他5人は宴会中にそれぞれどんぶり飯1杯分を食ったことになるのだ(笑)。

すし飯というものは冷えたものよりも、実はほんのり温かいもので握ったほうが美味しい。実際、高級寿司屋ではそのように米をセットして出している。スーパーや回転寿司で飯が冷たいのは魚の鮮度が落ちて食中毒など出したら大変なので安全の意味もあるのだろう。あれでは本当の寿司の味はわからない。

握り寿司考、五色台へ

もうひとつは「わさび」である。一般に使われる「粉わさび」の原料の正体はホースラディッシュ(西洋わさび大根)で、チューブ入りのわさびもほとんどがそれである。チューブには本わさび入りをうたっているものもあるが、食味や保存性を高めるために添加物がかなり使われている。

僕は東京に住んでいた頃から鰹節を自分で削って使っているのだけど、実は鮫皮のわさびおろしを持っていたほど本わさびのファンでもある。それは年末になると築地でバイトしていた時代にさかのぼる。

鮫皮おろしは引っ越しのゴタゴタで紛失したけど、高松に越してからは信州のそばチェーン「そじ坊」(高松駅ビルとゆめタウンの中にある)で生わさびを自分で削って食べれるメニューがあるので、そこで残りを持ち帰っておろし金も購入し、プチわさびをときどき楽しんでいた。

あるときスーパーで売れ残った本わさびが安く売っていたので、購入してそれで寿司モドキをにぎってみたらやけに美味しい。寿司で重要なのは魚の鮮度や仕込みであるのはもちろんなのだが、実は酢飯と本わさびが極めて大きなファクターを持っていることに気づく。

それにしても、あの深山の清流でしか栽培できない本わさびというものが、海からきた魚の刺身に実によく合うのである。そして、そこに米というものが合わさって、寿司という芸術的な料理が完成する。それが杉樽と発酵を介した酢や醤油が盛り立てる・・・この組み合わせ、なんだか「奇跡」としか言いようがないではないか。

鳥取県の倉吉市関金町には西日本最大規模のわさび田があって「道の駅犬挟(いぬばさり)」で入手できる。僕が行った4年前には2本で600円と実に廉価だった。これなら家庭でも十分楽しめる。高松のスーパーでもこれ販売してくれないかな・・・。

本わさで手巻きとにぎり

さて、魚と米について丸元淑生の『何を食べるべきか』に興味深い内容が書かれている。明治時代の樺太のアイヌの暮らしぶりを作家のチェーホフが観察した記述があるのだ。チェーホフといえば『桜の園』で有名なロシアの劇作家・小説家だが、30歳のとき流刑地であるサハリンの囚人たちを取材しており、このとき現地の日本人外交官とも交流している。チェーホフが当時のアイヌについてこう書く。

南樺太にロシア人が入り込まなかった頃は、アイヌは日本人の奴隷のような存在であった。彼らを奴隷にすることは、彼らが善良・従順でことに飢えていて、米なしではおられなかったために、その隷属はさらに容易であった。

南カラフトにロシア人が入り込むと彼らはアイヌを解放し、自由を与えたが、ロシア人は米をもたらさなかった。アイヌはギリャーク人とちがって魚と肉だけでは食っていけず、米が必要だった。それで飢えのためにマツマイに移り出した。

『何を食べるべきか』には出典『サガレン紀行』とあるがこれは岩波文庫『サハリン島』と同じものであろう。調べてみたら、かの村上春樹が『1Q84』の中でこのチェーホフの『サハリン島』からギリヤーク人の記述を引用しているらしく、そのおかげでチェーホフの『サハリン島』も読まれているという。

『サハリン島』も『1Q84』も読んでいないので丸元記述からこの話題を追う。そのときアイヌが本国の松前藩と米を物々交換しており、アイヌが米を得たいがために理不尽な交易をさせられていた。

その交易物の物資の記録は『夷諺俗話』(いげんぞくわ)に残されており、アイヌは米1俵を得るためにニシンや棒鱈や椎茸、アザラシの皮に到るまで膨大な物資を差し出さねばならなかった。丸元淑生は礼文島に渡って礼文町誌でこの記録を読んだという。

アイヌは鮭をはじめとして沿岸魚を豊富に食べており、ロシア人が樺太に来てからは正当な値段でパンは買えるはずであった。が、彼らはそれほどまでに米を食べたがっていたのである。これは単に嗜好の問題ではなく、「日本的な食事の極北の姿」をみせるアイヌの食が「栄養的に米がなければ健康を維持できない」という深刻な問題を持っていたのだ・・・と丸元淑生は推理している。

人間にとってオプティマルな食事は一つではない。それぞれの気候風土で長い時間をかけ、健康が維持できる食体系が作られている。同じように沿岸魚をたくさん食べながらパンとオリーブ油を多食する民族もいるが、日本人のDNAには魚と米というセットが刻まれているのだ。

米を得るには安定した水が必要で、その元になる山林と河川・水路の維持管理が極めて重要である。だが、水を強欲に管理しようとコンクリートのダムや堰堤などをつくれば沿岸魚は生きづらくなる。そこで新嘗祭に戻るのだが、秋には収穫に感謝し、春には「山の神」を祀るという祭祀は実に理にかなっている。

すし桶の材になるスギ林が水を蓄えその湧水でわさびが育つ。鮭、鮎、うなぎ、が海と川を行き来する。やさしい農の手入れで里山の美しい昆虫や花々が育まれる。日本人は結(ゆい)作業を通してそのベースを大事にしてきた。ITや合理性だけではこの真理や叡智は決してはかることはできない。それほど偉大なものである。

この思いは「食」というものが付随して完成する。アタマだけで、慣例や美意識だけで土木作業や林業や農業をやっていては片手落ちだしあまりにもったいなさすぎる。今回の直会の「にぎり寿司」は、僕にとってあらためて様々な記憶を掘り起こすいい機会であった。

というわけで、来シーズンは自分の敷地にしてもGomyo倶楽部にしても、もう少ししっかり作業できるよう頑張らねば(汗)。


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