yuiさんの墓のある墓地には最下段のアプローチに桜並木がある。開花を楽しみにしていたので行ってみた。満開で、すでに散り始めていた。
古い花を撤去して、畑から持ってきた花を添えた。トウ立ち白菜の黄花だけど。
天気がいいので、ついでに源平合戦の史跡をくまなく回ろうと思い、折りたたみ自転車を積んでいった。まず車で向かったのは赤牛崎(あかばざき)。当時の屋島は島であり容易に渡ることはできなかった。義経らはこの浅瀬から屋島に上陸し、平家の陣営に攻め寄ったと伝えられる。ここから見る屋島は左右対称のきれいなピラミッドでちょと驚く。
先日、予行調べをしていると史跡の集まる場所に無料駐車場があることを発見した。また案内場もあり、そこでマップを入手する。そのマップには全部で11カ所の史跡がプロットされており「ぐるっと歩くと2.8キロくらいあります。およそ1時間くらいです」と書かれていた。
駐車場のすぐ近くに那須与一が扇を射るとき足場を定めたという岩「駒立岩」がある。
岩は満潮で水に隠れていた。
水門に扇の的のイラストボードが立ててある。
自転車を組み立てて次のポイント「祈り岩」に行く。那須与一が扇を射る前にこの岩に祈ったという。お賽銭が載っていた。
「景清の錣引の伝説(かげきよしころびきでんせつ)」この辺りで平家軍団一の豪傑とされる悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎が一騎打ちした。太刀を折られ、逃げる源氏の美尾屋十郎のカブトを、平家の景清は熊手で引っかけ、腕の力でカブトの背面にある錣(しころ)を引きちぎったという。景清の剛勇さと十郎の首の強さをお互いに称賛したと伝えられる。ちなみに悪七兵衛景清は古典芸能において景清物(かげきよ もの)と呼ばれるジャンルがあるほど有名であり、能・謡曲・浄瑠璃・歌舞伎などに種々の演目がある。
洲崎寺。大同年間(806〜)弘法大師により創建。義経の身代わりとなって討死した佐藤継信の亡がらを、戦火によって焼け落ちた本堂の扉に乗せて源氏の本陣「瓜生ヶ丘」まで運ばれたと伝えられ、継信の菩提寺として、毎年3月19日に慰霊法要が行なわれている。境内にしだれ桜とイチョウの大木(保存樹)がある。
また源平の庭と呼ばれる庭園があり、苔と石で「屋島檀の浦の戦い」を表現してある。
手前が赤牛崎、奥が屋島。
壁面には合戦のあらましを書いた石の説明板が並んでいる。
なんだか凄いお寺だった。
扇形の石板には凸版で絵が浮き出ている。こんなのが全部で7枚。駐車場も完備されている。また、江戸時代に四国八十八ヶ所霊場を庶民に広め「四国遍路の父」と称えられている真念の墓は、この寺の境内にある。
義経弓流しの跡。
総門。平家方がここで門を構えて海辺の防御に備えた。桜の前に立つ標木は高松藩主松平頼重の建てたもの。
立派な石碑も建てられている。
射落畠(いおちばた)。佐藤継信が射落とされた場所。
時に28歳、継信はみちのくいで湯の里飯坂大鳥城の出身。の文字が見える顕彰碑。
こちらは継信の末裔の方が建てられた石碑。
しかし、よく前を通っていたスーパーの近くにこんな史跡群があったとは・・・迂闊だった。
そして継信のお墓。ここは以前訪れたことがある。
源氏の本陣「瓜生ヶ丘」。もはや何の痕跡もなく、碑だけが立つ。
長刀泉。弁慶が長刀で掘ったという井戸。
菜切地蔵。高台にあり見晴らしが良い。どの史跡もきれいに保たれていて気持ちがよかった。
車に戻る。駐車場近くにある「与一公園」より屋島を見る。
この後、車で「菊王丸の墓」と「安徳天皇社」を巡った。