梼原町の隈研吾建築行脚(雲の上のギャラリー)


雲の上のホテル別館や総合庁舎からちょっと離れたところに、雲の上のホテル(旧本館)と雲の上のギャラリー(旧名は「梼原 木橋ミュージアム」)がある。中央の柱から斗栱の原理で橋を構築している「雲の上のギャラリー」の部材は、スギの集成材である。橋の左のが温泉施設、左にギャラリー空間がある。

下からの眺めがとくに美しく迫力がある。

まるで巨大な龍のようだ。

柱は鉄骨だが木で覆ってあり梁との一体感を見せる。

この雲の上のギャラリーは、地域材を生かした構造が評価され、竣工翌年の2011年に「林野庁長官賞」を受賞している。

これは裏側から。エレベーターがあって橋の中に入れるので行ってみた。

内部は厳かな空間だった。

やはり、棟札が掛かり、この橋のいきさつやデータが細かく書かれている。

橋の対岸には広間があり、そこがギャラリー空間になっている(展示はなかった)。

このギャラリーの建物も斗栱組みのようになっていてユニーク。隈さんはガラスの使い方も巧い。石垣のごつごつ感も、建物から飛び出した梁の木口と呼応している。おそらく、石のサイズ・組み方も十分検討されたのではないか。

このギャラリー空間から廊下が伸びて、一番初期の隈作品「雲の上のホテル」につながっている。このホテルは2004年3月、ちょうど私が梼原町で林業の講演をする直前に完成したのである。講演の前日に案内されて温泉に入り、隣の温水プール施設を見学し、このホテルを見せてもらった記憶がある。

講演の前日の日記に、私はこう書いている。

夕刻、今日の宿である農家民宿に案内していただき、お風呂は近所の町営温泉に入りに行った。ここには立派な温水プールまであって驚いた。

夕食は囲炉裏のある部屋で山菜づくしだった。民宿の前には小川が流れ、その対岸が山菜収穫用の山になっている。お蕎麦や囲炉裏で田楽やアメゴを焼いたものをいただいた。

途中で民宿の主で梼原町議員であるUさんがお戻りになり、Tさんとともに3合徳利による盃回しが始まった。ここ高知では注がれた杯を飲み干して返杯するという風習がある(これは高知ばかりではない。九州もそう)。

僕の長年の経験からいうと、ご返盃を断ると取材は成り立たず、いい話や地元の方々の本音は聞けない(笑)。とはいえ、明日は講演だし、早朝にPCで資料を構成しなおさなければならない。

というあたりはさすがに気づかってくれているらしく、ご返杯はUさんとTさんの間を行ったり来たりしていることが多く、ときおり僕に回って来る、という程度で助かった。

途中でTさんが帰り、Uさんと民宿をきりもりする奥様と歓談。夜も更けたのでお酒はお茶に変えていただいた(ホッ)。

Uさんは町議の他に「ゆうりん」という若手林業従事者の世話や指導をするお仕事もされているということで、梼原の将来に心を砕いている様子だった。

その話ぶりに「町独自の路線を打ち出して産業を振興させたい」「木材を売って換金しなければ・・・」という気持が見えた。そして、あらかじめ用意しておいた僕の講演用のレジメを見て、その主旨のいくつかに顔を曇らせたようだった。

すかさず僕は、鋸谷式間伐を推進している森林組合は仕事がとても盛んになって、作業員さんたちは現在の補助金の中でも十分ペイしている、というような話をした。鋸谷式なら作業効率が高いからである。すると、

「林業従事者はよいとして、では山林所有者はどうすればいいのか?」とUさんは切り出してきた。

「林業はもともと儲かる仕事ではない」「間伐材を使おうとするから間伐がすすまない」という僕のレジュメに対して、「都会の人間はわれわれの苦労も知らず環境環境と勝手なことを言うが、環境では飯は食えん」という論調だ。

僕の考えはこうだ。

「”環境”そのもので換金することは困難ですが、環境はタダで山菜や水を生み出してくれるじゃないですか? 都会じゃワラビ・ゼンマイは生えてこないし、キノコもワサビも栽培できませんよ」

金銭というマジックから開放されれば、山村は物質の宝庫である。今は道具も豊かで冷蔵庫もあり、道路もよくなった。インターネットなど通信技術も普及している。すべて昔に戻る必要はない。しかし環境が疲弊したらお終いだ。その原点に山がある・・・。

最後に2册の本『鋸谷式 新・間伐マニュアル』と『図解 これならできる山づくり』を見てもらう。Uさんは「明日の会場でこの本を買おう」と言ってくれた。

寝室に戻り、PCを開いて資料をつくるうちに睡魔が襲う。ここではさすがに無線のメールは繋がらない。明日の講演は自分にとっても重要なものになるだろう。(旧旧HP「日の出日記」2004.3.24)

今思えば、なんとも生意気な書き方だが、結局町の人たちは、環境が一番の宝物であることに気づいたからこそ、自然エネルギーを推進し、隈研吾をこの地に引き込むことができたのではないか。

結果的にあとの3建築では、町の山林から膨大な量のスギ材が買い上げられ、間伐材もかなり使われたと思われる。総合庁舎の棟札によれば、建物一つで50年生スギに換算して「森林5ha相当の木材」が使われたという。

と同時に、「この建物の木はウチの山から伐り出したものだ」と、町の人々は誇りを持つことができる。隈研吾は著書の中で、「木という素材は決して豪華なものではないが、人間と自然をつなぎ直してくれる素材だ」と書いている(『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか』3章)。

あの橋はすばらしい建築アートになっているが、ただのモニュメント・オブジェではない。機能的には雲の上のホテルから、下の温泉施設まで移動するとき、寒さにさらされず室内を移動する目的がある。

その平面のつなぎと、高低差を合わせる設計は、橋の独創的な大仕事に加えて、相当大変だったのではないかと思う。そういう意味では、初期の隈研吾「雲の上のホテル」はきわめて重要な作品だったのである。現地に立って、そう思った。


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