西上州名峰の昔


前橋の県立図書館で郷土資料を探した。3日に楽しみにしている秩父夜祭りに関して調べものをしようと思ったが、考えてみれば秩父は埼玉県だ。上州の本で『秋山郷と西上州の山々~首都圏から最も近い秘境案内~』小板橋光著(山と溪谷社’92)という山岳紀行を見つけて借りる(アトリエのあるH集落はこの西上州の山の麓にある)。

「瀬林から三十分程で、神流川に架かる古鉄橋を渡って神ヶ原に到着した。十石峠に通じる国道で万場行きのバスを待っている間に、雨は急速に上がって青空が広がり、神流川を隔てた正面に叶山が全容を現してきた。急峻な岩肌を巡らせた岸壁となだらかな丸みを持った頂上は、独特の美しい姿をみせて、古くから西上州の名山と呼ばれた秘境の地にふさわしい雰囲気が感じられた」

「午後は十三時に山頂に向かって歩行を開始し、十分足らずで標高一二四六メートルの東御荷鉾山の頂上に到着した。山頂は狭くここにも不動明王の像が立っていた。(中略)ここから石神峠に向かう下りは急勾配だったが、地面は硬くて歩きやすく三十分ほどで到着した。峠に立って山頂を振り返ると、左右が当角度で立ち上がっている山容は端正で美しく、その姿からみてもこの山はやはり西上州の名山であり、古くから信仰の山と崇められてきたのも当然のことだと思った」(同書「西上州の山」章より)

そして筆者は、わがアトリエのあるH集落を通り「南斜面に点在する農家を左右に見て」いったん車道に出、ふたたび旧道の沢沿いを下って県道からバスに乗って帰るのである。これは昭和52年の4月の紀行で、僕が18歳の頃のここH集落近くの西上州の山の風景である。

ところが、わずか二年後。

西御荷鉾山頂で散乱するゴミを気にし、グループの疲れと寒さから東御荷鉾に登らず柏木に下山を始めた筆者はこう書く。

「さらに下り続けて小さな沢を渡ると、すぐ下でブルドーザーが沢に入って底土を浚っているのが見えた。(中略)十四時三十分に下りにかかるとすぐに、沢の底土が浚われ清流が泥流に変わってしまった。不動の滝入り口からは林道が完成していたが、傍らの泥流は全く沈殿する様子もなく細かな土砂を押し流していた。前回ここを通ったときは清流に木々の緑が映って河鹿の声が谷間に谺していた。しかし、現在目の前にあるのは泥流と護岸のコンクリートの壁だけで、清流と河鹿の声はどこかに消えてしまった」

「昨日タクシーの中で聞いたセメント会社が二子山を買収したこと。叶山に向かって造られていた橋や道路、西御荷鉾山から赤久縄山にかけて山頂付近に造られていた林道、そして目の前に現れた泥流を見ると、今回の山行は秘境西上州が大きく変わって行くことを感じた。自然破壊とも思える開発行為を目にした山旅でもあった。『もう再びここを歩こうとは思わない』そんな独り言をつぶやきながら歩いているうちに、バス停のある柏木の集落に到着した」

「万場行きのバスは通ったばかりだったので、付近の川原などを散策して時間を過ごし十五時二十分のバスに乗った。車内は空いていたが、乗り合わせた地元の老人からこの付近の話しを聞かせてもらった。神ヶ原には石灰岩を採取する設備ができたので、まもなく叶山の岩を崩して、山の真ん中に造った縦坑から地下を通して秩父に運び出すのだと話していた。山が消えるまで百五十年はかかるということで、老人は無関心のようだったが、奥多野の名峰叶山が崩されるという話は大きなショックだった」

「また、老人が戦後地元に戻った頃には乗り切れない程の混雑だったと話していた万場から新町に向かうバスも空いていた。それはこの地が確実に過疎化の道を歩んでいる証拠であり、時代の流れに一抹の寂しさを感じたが、叶山の話は西上州の山を愛する小生には誠に大きな大きな衝撃だった」(同書「西上州の山」章)

これが小板橋さん昭和54~55年の紀行文である。僕が20~21歳の頃のことで、この頃ぼくは日大工学部の大学生で東北の山岳渓流を釣り歩いていたのである。

今日は「ぐんま昆虫の森」を観てきた。


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