アトリエの火鉢


囲炉裏を離れたら、和室では火鉢。この炭は自家製だ。とはいえ窯で焼いたものではなく囲炉裏で製造(?)したものだ。方法はいたって簡単。囲炉裏で燃やしている木の先端を火ばさみ叩くかでポキリと折るかして熾炭を取り出す。炉の中央の灰の中にも熾炭が潜ったまま赤々としている。すぐ使うなら(つまり囲炉裏での食事を終え、和室に移動するなら)それをかき集めて小鍋(コーヒー豆を煎るのに使っているもの)で運ぶ。保存して後で使うなら「火消し壷」に入れて火を消しておく。こうしてためておいた消し炭を、後で火鉢で使うのだ。

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炭の質は前の木の性質を反映するもので、お酢薪やスギの間伐材なんかはそれなりのスカスカ炭にしかならない。火鉢で使ってもすぐに灰になってしまう。しかし、カシやクヌギなどの薪から得る消し炭はバカにできない。火持ちが良く、匂いもいい。窯で焼いたものに比べサイズが小さいのが難点だが、こうして日常の中から炭を得て、木質素材を余す所なく使うのは愉快な気分だ。

囲炉裏を始めてからというもの、都市郊外の雑木林が放置されているのを見て、よりいっそう勿体なく思えてしょうがないのだった。高崎や前橋近郊の森はまったくといっていいほど生活や産業から乖離したものになっているようだ。手入れがほとんど為されておらず、林床にはアズマネザザがびっしりと生え、林縁にはクズなどのツルがぶら下がっている。材が現金になる人工林でさえ放置されているのだから、雑木林が放置されるのは当たり前といえる。

しかし雑木林の放置は人工林の場合よりまだずっとましである。ここでは樹木の種類が多く木に優劣があるため自然の間引き現象がおきやすい。照度もあるので下草やササ類が生えて表土の流出を防いでいる。だから、雑木林での土砂崩壊はほとんど見られない。ササの繁茂を嫌う向きもあるが、ササが生えるということはそれだけの必然と理由があるから生えるのだ。ただし、里山の生物多様性を語るなら話はまた別だ。

たとえばアリと共生するクロシジミというチョウは、その生息場所が里山薪炭林に適応していた。いまこのチョウは絶滅危惧種になっている。僕はこのチョウを少年時代に水戸市内の雑木林で採ったことがある。当時はまだ薪や炭が市内でも使われていた時代だった。また採草地が放置されて遷移したために草原性の昆虫も激減しているという現実がある。農耕馬などがいなくなって、草原を維持する必用がなくなったからである。

では、それらの種を守るために昔の生活に戻ればいいのか? そんなことも今さら無理だろう。しかし、少しは戻ってもいいのではないか、と僕は思っている。農耕のために馬や牛は必用ないとしても、燃料に薪や炭を使うのは日本では理にかなっている。それは料理を美味しいものにし、森林環境を保全することに大きく貢献する。自然との接触、自然との対話を必然的にもたらし、人に智慧を与え、人を健康にする。火と刃物が扱えない人間は逆に危険である。ここに戻る「キー」として山村や林業というものを捉えることができる。道具としての火や刃物を自由に扱える場所として。

「電磁調理の台所が3軒に1軒は完備される時代が来る」などとバカなことを言っている人がいるらしいが、僕は「囲炉裏とカマドが3軒に1軒は完備された時代」が来なければ日本は滅ぶのではないか、と思っている。原子力発電所なんか造る前に山を再生させ、心身ともに健康になろうじゃないか。


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