遅ればせながら床の間のお飾りを下げて「鏡開き」をした。鏡餅の下部にはすでにカビがきており、それを削ってから割る。群馬のときと比べてここではカビが来るのが早い。火鉢で焼く。
お汁粉に。
これは自分への京都土産。旅の土産は今回これだけ。
手あぶり程度の火鉢でも、こうやって焼き物がさっとできる。普段は鉄瓶を常に乗せておくと、仕事の合間にお茶も飲めるし加湿器がわりにもなる。普通の家なら、電気ポットと電気の加湿器を使うことだろう。
囲炉裏暖炉→熾炭できる→火鉢に使う・・・というサイクルは私の暮らしになくてはならないもので、薪はタダで入手できるし電気代もいらない。増え続ける灰はまとめて畑にまけば完全リサイクルになる。
薪ストーブの場合、熾炭をわざわざ取り出すのはおっくうになるが、囲炉裏や囲炉裏暖炉はそうではない。むしろ燃やし続ける過程で過剰にできる熾炭は取り出したほうがよく燃え続けるのである。
熾炭は軽くて燃え切るのは早いが、それゆえ着火はラクで日常的に使いやすい。かつて山村では焼いた炭は換金するための商品であって、日常に使う炭は熾炭であった。この当たり前の事実をこれまで誰も活字にしてこなかったのである。
枯れ枝を拾って囲炉裏を焚き、その熾炭で火鉢を使い、灰を畑に還元する。これを会得すると「地球に生きている・・・」というリアリティをものすごく感じることができるし、植物や生き物たちへの感謝の念も自然に湧いてくる。
かつて京都でもみな薪火を使っていた。大原あたりから売り来る薪を町屋のおくどさんで使い、残った熾炭も火消し壺に入れて大事に使ったはずである。どこかそんな暮らしの再現を見れる場所があるといいと思うのだが、市の条例で街なかは火気厳禁になっているらしい。
付け加えれば家電のデザインがどんなに洗練されても煩わしいコードは残る。囲炉裏暖炉と火鉢にはそれがない。そういう美しさも好きなところだ。