毎月第一土曜日に、桐生で骨董市がひらかれるので行ってみた。お目当ては囲炉裏道具と山道具だ。囲炉裏用の弧を描いたゴトク(ワタシ)をずいぶん前から探している(下図参照)。これはよく考えられた道具で、この上に載せて焼くと囲炉裏の炎を立てていても焦げることがない。といっても直火を使ったことがない人にはイメージがわかないか?
物を焼くときは炭火か熾火(オキビ/焚き火の炎が消えて薪が炭状態に赤くなったもの)のとき上手に焼ける。炎が上がった状態だと、素材まで燃え上がってしまったり、ススで黒くなったりするのだ。ガスの直火で魚を焼くときは魚焼きの網を使うけど、あれは二重になっていて、石綿や鉄板で炎を遮断するようになっているでしょう。炎を遮断しつつ、網下の板を熱してその輻射熱で焼こうという寸法なのだね。
ところが図の道具があれば、炎の横熱を使って焼くことができるので、焦げることがない。ただしあまりサイズの大きなものは焼けないし、ときどき方向を変える必用がある。また串刺しで囲炉裏の周囲にものを並べて焼く方法も同じ原理で、実によく考えられている。僕もかつて渓流釣りのキャンプでこの方法でイワナを焚き火で焼いたことがないではないが、囲炉裏の場合は下が厚い灰なので刺した竹串の位置を微妙に調節できる。これは囲炉裏を実際に使ってみて、あらためて発見したことだった。
昔のチョウナと板を挽く鋸ノコにも興味がある。しかし、骨董趣味のコレクションではなく、現代にその用具と技術を甦らせようという意味において、使いたいと思っている。その詳細はまた、別項で語ろう。
桐生では古民家の残る露地で別の市も開かれていて、からくり人形芝居なども上演されていた。しかし、なんだか全体に活気がない。古き良きものを活かすのはいいんだけど、それにおんぶしているだけで未来が見えていないのだ。これは全国どこのお祭りでもみられる現象だ。活気があったとしても、それは元気に踊りを踊っているだけで、結局なにがなんだかわからない。市や祭りにおいて、最も重要な部分が抜け落ちているのである。それは「土地の産物」によって、「土地の縁起」によって、生き・生かされているという確認なのだ。それがないから、感謝もなければ感動もない。
夜は、H集落のIターン組で集まる会合に出た。合併後、ますます過疎化が進であろうその対策も、兼ねていた。「馬頭観音」のことを思い出した。いまの季節、林道で目立つ キブシとアブラチャンを撮ろうとCopenを止めて撮影に入ったら、そのキブシの近くに馬頭観音の石碑があったのだ。江戸時代、馬が往来していた時分に置かれたものにちがいなかった。ここはかつての街道だったことを彷彿と思い出させた。