アトリエ敷地にツツドリが「ポポポポポ」と鳴き出した。それにウグイスの「ホーホケキョ」、アオバトの「ホーワーオー」、キツツキの「タラララララ・・・」というドラミングの音が加わって、外で折りたたみ椅子に座って本を読んでいると、その様々なミックス音が耳を楽しませてくれる。鳥の声だけではなく、庭先にツツジが咲いたものだから、それにハチやアブがやってきて「ブーン」という羽音も混じっている。
畑を一周するだけで様々なチョウと花々に出会う。その色彩と形と動きのバリエーションは豊潤で、見ていて飽きない。しかも、これらは時間軸の中でいつも同じということはない。芽吹いた葉は大きくなり、蕾みをつけ、花は実を結ぶ。チョウは交尾し、産卵し、死して子孫を残す。やがて卵から幼虫が出てくる。その卵の形も、幼虫の形態も種によって様々である。
この大自然の絢爛たる絵巻を味わうなら、いまの巷を闊歩している娯楽はなにも要らないと思える。事実、僕らはアトリエでは音楽というものをほとんど聴いていない。CDを聴くのは車の中なのだ。また、ビデオやDVD、映画もほとんど観ない。目の前の自然の変化が美し過ぎて、そんなものを観る必用を感じないのだ。
また、いま巷で流れているそれらは、俗悪、悪魔的、色彩音痴、過ぎて、観る聴くに耐えないものが多い。試しに、コミック誌をざっと眺めてみるだけでもその荒廃、廃退ぶりがよくわかる。こんな気色悪い絵やストーリーを眺めていたら、精神までおかしくなること請け合いである。
話がそれてしまった。野外で調理するときの雨避けタープをかけるために、渡しておいた竹竿が、風化で痛んで落ちてしまった。それをノコギリとナタでさばいて薪にしておいた。それで火をおこしてヤキソバを作った。竹は一気によく燃える。短時間で勝負する炒め物には便利な薪だ。竹は役目を終えた後も、ゴミにならず燃料になって灰と帰していく。
野外で読書するときはサングラスをかける。太陽の光は偉大である。外で調理すれば電気の明かりはいらない。ガスもいらない。まぶしいときや暑すぎるときは日よけをすればよく、またちびカマを木陰に移動してうまくやればよい。
竹を伐り、道具に利用し、野外で調理することで、外で肉体を使うことで、身体や精神が活性化する。地面に落ちたヤキソバの破片は、アリがやってきて片付けてくれる。植物がいて昆虫がいて鳥がいて太陽がいる。光と生き物のうごめきの中で僕らも生かされている。
都会ではこうはいかない。人々は気付かないが、電気やガスを使うために、膨大な無駄を経過している。竹竿の代わりにステンレスの物干竿を使うとすれば、それが手元にやってくるまでに鉱山からの採掘、精錬、鋳造製品化、輸送、宣伝、販売、などを経て、ようやくステンレスという金属の物干竿がいまここにある。それは値段は安いかもしれないけれど、様々なからくりの中でその値段になっているのであって、影で誰が泣いているのかは判らない。
アトリエでこの頃驚いたことがある。花瓶に生けた花がものすごく長持ちすることである。そういえば、カビや腐敗するのがすごく遅いということにも気付く。大晦日についた餅は常温で1ヶ月黴びずに保ってしまった。土壁、無垢の木材、囲炉裏の煙、などの調湿・防腐効果。あるいは水そのもののエネルギー。あるいはまた、このアトリエ周辺の生命エネルギーの磁場の高さ、といったものもあるのだろうか?
そして、ふと思うのである。強度間伐で甦った森の、あのなんとも清々しい磁場の高さ。あんな山々に囲まれたら、それだけで人々は健康になれるのではないか、と。そして、そのすばらしさをもちろん植物たちも、昆虫たちも、鳥たちも知っている。そしてまた、僕らがその喜びを感受する。微生物の動きも磁場を映す鏡なのであろう。そして、生き物はすべて皮膚の表面や腸内にたくさんの微生物を宿している。常に生成発展を繰り返している。人も例外ではない。
今日は太陽に虹の環ができていた。畑のジャガイモが芽吹いた。