朝、三富村の笛吹川を遡る。笛吹川源流の西沢渓谷は中部山岳有数の美渓として名高い。エメラルドグリーンの淵の連続する「七つ釜五段の滝」の写真は山岳雑誌などで何度みたことか知れないが、僕はまだ実際に行ったことはなかった。小雨も降り出す天気。コースは全長10km、うち半分は滑りやすい沢沿いの登山道。気軽なハイキングとはいかない。相方と相談するが、ぜひ見ておきたいというので、車止めから林道に入って歩き始める。
新緑が萌え出たばかりで清々しい空気が満ちている。途中から沢沿いの登山道になる。しかし踏み跡は明瞭で難所には階段がかけられたり鎖があったりして不安はない。ところが、ようやく西沢渓谷らしい滑滝が現れたあたりで雷が鳴り出す。雨が降り止まぬまま、再奥の七ツ釜に到着。写真で見た通りの美しい滑滝である。しかも上流には道や民家はない、再奥の源流であるところがいい。釜(滝の落ち口)の美しさが際立っている。
帰りは対岸の道を帰る。その道はかつての森林軌道(トロッコ)跡であった。ほとんど段差のない緩やかな下り道だ。昭和8年から43年まで運用されていたという。全長は36km、自然勾配を利用してブレーキだけで塩山駅まで木材を運んでいたのである。帰りは馬が貨車を引っ張ったのだそうだ。難所には特殊な地名がつけられたという説明看板がある。林業関係の難所では、作業中にそこで怪我をした人の名前が付けられている例が多いのである。
カラマツ、ツガ、トチノキ、ブナ、道沿いにぽつぽつと巨樹が現れるが、伐採の前はどんな原生林だったのだろうか。長靴履きでの10km歩きはなかなかこたえたが、雷も止んで峰もうっすらと雲間から顔を覗かせて、快適な新緑散歩を楽しんだのだった。
笛吹川沿いは秩父往還と呼ばれるいにしえの道だが、現在は雁坂トンネルという長大なトンネルが完成して埼玉県との往来が便利になった。途中、川沿いの民家に茅葺きが見えたので降りてみることにする。すると、そこには笛吹川の名の由来である「笛吹権三郎」の石像が建っていた。
茅葺きの芹沢地蔵堂には傍らに「丸石神」が祀られている。山梨だけにみられる石信仰で、石台の上に丸い玉石が何個か載っているだけだ。太陽神ともお産の神といわれているけれども、その源流は謎だという。ともあれ近寄りがたい不思議な威厳を放っているその丸石に、思わぬところで出会えて嬉しかった。