町なかでこそ井戸の水


「井戸の水」という昔の京都住まいのおばあさんのエッセイから。

それは、神輿洗いの日のことやった。十日夜、祇園さんをお出ましになった裸神輿さんは、四条の大橋が神事を済まして、またお戻りになる。そのとき、お神輿さんに続いて、大きいお松明(たいまつ)も通ったので、四条通には、燃え尽きたから消しがいっぱい落ちていた。わたしらは、それを拾いに行って、だいじに持って帰り、井戸の上に水引をかけて、吊るしたものである。それは、井戸の水に虫がわかんまじないやったっそうな。~中略~

近ごろ、井戸水が使えるおうちは、だんだんと少のうなってきた。近くにビルが建つと、水脈が断たれるためか、それとも、ビルが地下水を冷房用などに汲み上げてしまうのんか、とにかく、井戸はかれた。そして、ポンプの管を打ち込んでも、水は出んようになってしもうた。

1980年のエッセイです。時代が井戸を追いやっている様子が・・・。

家事をするもんにとって、井戸水ほどけっこうなものはない。洗いものをするのにも、そうじをするのにも、冬の水はあたたかいし、夏は、汗がスッと引くほどつめたいし、第一、おいしかった。~中略~

夏の間、井戸にはスイカやら、麦茶やら、サイダーやら、いろんなもんが冷やしてあった。網の袋に入れて、ぶら下げておくと、ほんまにむっくりとよう冷えよる。おなすのたいたんも、おかぼのたいたんも、みんな、井戸のなかにあった。

それに、タイの洗いやらは、ぜったいに井戸水でないと、ショリとしないし、氷水ではどうにもならない。~中略~

タイの洗い、そうなのか・・・。

考えててみると、土が少ない町なかでは、せっかくの雨でも下水に流れてしまうので、地下水としてたくわえておくわけには、いかんようになった。~中略~

水道だけの暮らしになってみると、夏は琵琶湖の水位が気になって、どうぞ、あっちで雨が降りますようにと、つい思う。~中略~

もう神輿洗いの夜に、から消しを拾いに出かける人もいないやろうし、まして、それがまじないやなんて、どうでもよいことである。けれど、ほんまは、町なかでこそ、井戸の水がほしい。(『冬の台所(はしり)』大村しげ/冬樹社1980)

「錦(にしき)はいつ通っても、水のにおいがしている」

京都の台所、錦小路(にしきこうじ)は東京でいえば築地の場外のようなところだが、ここは昔から清冽な地下水が湧いたので、魚の貯蔵などに向いていたのだそうな。そして水を使うので、そこには石畳が敷いてある。

僕は子供の頃、茨城の水戸の町で育ったけれど、やっぱり井戸の思い出がある。手漕ぎ井戸でがしゃがしゃやっていた。

地下水は渇水に強い。背後に山をひかえる扇状地は、実は巨大な地下ダムなのであり、それは災害にも強い。ダムからの水は延々と配管を通って都市へと導かれ、それは元が一カ所でも破断すると配水に支障をきたす。

ところが、わが群馬県下で行なわれている、首都圏最後の巨大ダムにして最大の愚行「八ツ場ダム」はいったいどうよ? 豊かな地下水をもつ東京の多摩地域や、千葉でも、八ッ場ダムができると、現在水道水として飲んでいる美味しい地下水が、ダムの水に切り替わる。不味い水の押し売りをされるのだそうだ。

その不味い水の内訳だが、だいたいにしてこのダムができるのは吾妻川の中流域だ。この上流には軽井沢あり、草津あり、万座あり~の、ようするに観光客(日平均2万人!)の生活排水がダムに入る。しかも嬬恋村は首都圏の高原野菜の産地で、浅間高原では牧畜も盛ん。化学肥料や農薬、糞尿まで入ってくるわけネ。上流に何にもない利根川の八木沢ダム系とはまったくチガウシロモノなんだわさ。

吾妻渓谷を通りつつ草津に一日湯治に行くとき、すでにばんばんトラックが行き交い構造物がどんどん出来ているこのダムの工事現場を見ては、あきれ果て

「マジかよ・・・これを止められない日本人、もうダメかも・・・」

と、絶望通り越して笑える気分になる。これから、このダムの水をむりやり飲まされる人、なんで反対しないんだろ。あ、知らないだけか。

「八ツ場あしたの会」

http://www.yamba-net.org/


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください