野菜と井戸と


いい天気になった。庭でチビカマ君で焚き火して、コーヒーを入れつつ読書。その後、畑に出る。豆の残りをまき、草刈りを少し。

小さな手鎌で野菜の周囲の草を刈る。それと水路の土手の草も。手鎌で刈るのは楽しい、昆虫やミミズやクモたちが間近に見える。これがエンジンカッターの場合、刈る場所が視界から離れているので、地を這う虫など観察できない。手鎌ならチョウなども逃げない。かたわらに花と戯れるチョウを見ながら作業するのは、楽しいものだ。

そして、手鎌は選択的に切れるのがいい。残したい雑草があれば、刈り残して成長や開花を観察したり、有用植物があれば(たとえばユリ類とか)意識的に残すことができる。エンジンカッターだとすべて切り刻んで、後は芝生状の緑になるだけだ、切り刻まれた虫の残骸を残して・・・。

さて、今日の収穫でサラダ。バジルは収穫したものをオリーブオイルに漬けておいたもの。フェンネルは井戸の横に一株植えてあるので、いつでも採れる。ここ桐生の梅田はキュウリの産地なのだけど、市販のキュウリは農薬づけである。だから、どんなに貧弱であろうとも、畑のもぎたてのキュウリの味にはかなわない。

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汗だくになったら庭の井戸をガシャガシャとポンピングして、たらい一杯に冷たい水を満たして、腕を洗い顔を洗う。ついでにタオルを濡らし上半身を拭く。これが気持ちいいのだ!

庭に井戸があると涼しい。というか、土の庭があると家に涼しい風が通る。忍木菟屋は台所の壁を外して、一部を土間にして、東(川側)のドアから西の(山側)の井戸のある庭に地伝いに風が流れるようにした。これがほんとうに良かった。

さて、以下は京都祇園の舞子さんのエッセイから。

子どもの頃、お稽古から帰ると奥庭(筆者注:京都町家の壷庭のこと)に直行して、たらいに水を張ってパンツ一丁で水浴びをしたものです。

岩崎の家もウナギの寝床の造りで、奥庭は表通りから見えない造りになっています。汗も一緒に流してサッパリしたら、裸のまま井戸の冷たい水で冷やしたすいかを食べたりしました。

行水の水がすごく冷たいから、縁側に座ってそこに足をつっこんでいると体が冷えて気持ちよかったですね。奥の間は日陰になっていて、風が抜けるから涼しいんです。(『祇園のうら道、おもて道』岩崎究香著/幻冬舎2005)

京の町家は間口が狭く(これは店の表間口の広さで課税されるため)奥に長居、いわゆる「うなぎの寝床」と称される家構えであった。角地でない限り、家の両側は隣家の壁なので、窓を穿つことはできない。だから扇風機や冷房装置のない時代、この家の形で冷涼を穫る方法は、中央に中庭(土間)の空間をつくり、そこに井戸を掘り、地面に水を打つことであった。すると温度差ができて、道に面した格子戸から風が奥庭に流れてくる。

私たちは梅田のこの住まいで、井戸の水の良さ、土間のすばらしさ、自然の風の心地よさをしみじみ実感している。旧アトリエは崖っぷちの家だし背中が石垣だったから、風を考えることがなかったが、ここでは昔の人が、いかに夏の涼をとる工夫をしていたかを感じている。

総じて現代住宅は家の中を自然の風が流れない。壁が多くて開口部が小さすぎる。窓の位置が高い(掃き出し窓ではない)、土間がない、というのが決定的に風の流れを遮断している。加えて土の庭がなく、あってもウッドデッキなどで覆ってしまう場合が多い。このウッドデッキというやつがくせ者で、夏は蓄熱&反射板になり、せっかくの掃き出し窓の大きな開口部に、暑い熱風を送り込むのである。

今の家は、細い柱を使い、筋交いと壁の合板で保たせている。だから大きな開口部が作れない。ハウスメーカーは断熱性をもの凄くアピールするが、冷房装置必須の住まいで、電気代はかなり高くつくことを、隠しているのだ。冷房を使えば、壁内部の結露もおきる。

京都の町家の涼の工夫は、どんな悪条件でも自然の風を家に取り込むことができることを教えてくれる。ただし、井戸は必要だろう。幸い、京都は周囲を山に囲まれ、井戸水に恵まれていたのである。いま、京都では町家の再生が熱い。町家のカフェがどんどんできている。

この京町家のような暮らしを桐生の街中に復活させたい。


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