水戸の実家に寄ってから磯原へ行く。花園山周辺をひさしぶりに見たいと思った。磯原で皇祖皇大神宮に参拝したあと花園神社へ。山王権現の神仏習合の名残りで仁王門がある。
奥の拝殿に猿の彫りがあるのは、琵琶湖の大津にある日吉神社から勧請したからだ。信長の焼き討ちにで日吉大社も灰燼に帰したが、その後の秀吉は復興に尽力した。秀吉の幼名が「日吉丸」あだ名が「猿」であることから特別な神社と考えていたという。
花園の猿ケ城渓谷はかつてシャクナゲの群生地であったというが、ほとんど盗掘されて今は見られない。ここには佐竹の殿様が落ち延びた逸話が残っている。頼朝が挙兵をしたとき、常陸の佐竹は源氏の流れであるにもかかわらずそれに従わなかった。義経と再会を果たした富士川の戦いで頼朝は勝利を得たが、その後まず東国を平定すべきと佐竹を追った。金砂城は落ちて佐竹秀義は奥州花園へと逃亡。そして渓谷の洞窟で猿に食料を貰いながら生きたと伝えられている。それが花園山の猿ケ城渓谷なのである。
「東金砂山・西金砂山・真弓山・竪破山・花園山などの山岳寺院は、いずれも日吉王権現を勧請して守護神としたという開山の縁起をもっている。そして猿は、日吉山王権現の神使とされているのである。したがって、秀義が花園山に逃がれて猿ケ城の猿に助けられたというのは、花園山の日吉山王権現の加護を受けたことを物語る」(志田諄一『常陸五山の山岳信仰』筑波書林 1988)
私はこの県北の山に高校時代、チョウの採集でよく通った。つなぎ竿でミドリシジミを狙って、ポイントに急ごうとヒッチハイクをしたものである。ここには昭和の始めまですばらしい原生林があったそうだ。その原生林伐採に従事したという才丸のおじいさんから話を聞いたことがある。
ケヤキ、モミ、ブナ、カエデ、ミズナラ、多樹種の森で、もの凄い巨木がズラーっと樹海の様相を呈していたそうだ。本当の奥山が茨城の標高800m付近にあったのだ。その原生林伐採のときは人が集い、山奥に学校の分校まであったというから驚きである。
私の高校時代、原生林の名残りがまだかすかに残っていた。その追憶を『essay・花園橋から始まる』(水戸昆虫研究会会誌『るりぼし』19号1995)や『Outdoor』No.163/「大内正伸の花園山釣り紀行」(山と溪谷社1996)に書いた。
亀谷地湿原のある分岐点。今回は猿ガ城林道のほうから上がってみた。人工林が多いが、雑木が適度に入ったいい山になっている。
ところが、その道を挟んだ反対側に水源かん養保安林の看板、その後ろは間伐遅れの真っ暗なヒノキ林。
下層植生ゼロ。これで水源かん養とはw。
小川集落の先にある定波の学術保護林まで行ってみた。
わずかばかり自然林が残っている。
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さて帰りはまた宇都宮で餃子の食べ直しだ。「みんみん」本店、最も有名な店のひとつ。
シンプルなメニュー。店内はビールで餃子という人が多く、メシ屋というより飲み屋に近い。追加の餃子やビールの注文がバンバン飛び交っていいい雰囲気だ。
焼き餃子と水餃子とライスを取ってみた。羽根つきで香ばしくて美味い。
もう一軒「正嗣」をハシゴと思ったら売り切れ閉店だった。
また次回♬