茨城の日立にある叔父の田んぼを手伝い始めたのは前の日記に書いたが、今回2回目はいよいよ田植えである。前回の作業で苦労して作った水路は水に満たされてしっかり機能していた。
カテゴリー: 田んぼ
田んぼの手伝い(2日目)
さて出張お手伝い二日目。今日は日曜日。叔父の長男、すなわち私のいとこに当たるH君も朝から参加。昨日の水路1枚分の最後のおっつけのところを叔父と確認し、次の手順に移行する。
田んぼの手伝い(1日目)
水戸を7時に出て叔父の元へ向かう。子供の頃、父の運転する車に乗ってよく通った道は幅が広がり郊外店に彩られている。あの頃から比べて農地はどれほど減ったことだろうか? それでも時折、古い民家や納屋が見え、まるで砂漠に清水を見つけたかのように、ホッとするのである。
コーヒーをいただいてしばし叔父と談笑したのち、着替えてさっそく農地へ。田んぼはまだ水が入っていない。現在の田んぼの多くは乾田の期間が長い。水を長く入れていては畦が弱くなったり水漏れしたり心配がある。また、耕耘機など機械を入れるには乾田のほうがタイヤを泥に取られることなくスムーズにいく。
日本の稲作は「湿田から乾田へ」という歴史がある。もともと稲は低湿地に合う植物だった。古代はそんな湿地をうまく利用して稲作をやっていた。日本は山が多く農地に向いた平野は少ない。雨が多く川が頻繁に洪水をおこし、そのような氾濫原が農地にならざるを得なかった。そこは山からの養分が流れ堆積するので沃野ではあったが、いつも泥沼での稲作はあらゆる仕事が大変な労働になる。乾いた敷地に水を導いた田んぼの形態は便利であるし、それで収量も上がったのである。
叔父の田んぼは水の条件が悪い場所であった。長い長い水路の末端に位置している。しかもコンクリートU字溝の水路は途中で途切れ、後は他人の田んぼの畦の間を通ってくる水を自分で引かなければならない。流入口を管理するには、田んぼの奥まで細い畦を歩いて行かねばならないのだ。
そこで、車道の近くで水をコントロールできるように、自分で水路を伸ばしたいというのが今回の作業である。まずは黒ビニールで囲まれた畦を壊しビニールを回収する。酸素ボンベをつけながら作業を心配そうに見守る叔父。
田んぼの手伝いへ
田んぼ関係のイラスト仕事をいま引き受けているのだが、毎回ラフを上げるだけでかなり苦労している。実際に現場で働いてみないことには、どうにもリアリティが湧いてこないのだ。というわけで今年から実家にある田んぼの手伝いに行くことになった。
私の実家は水戸なのだが、父方の本家は日立市にあり、かなり古くからの農家で叔父が家を継いでいるのである。自然が好きだった私は幼少の頃からしょっちゅうそこへ泊まりに行き、祖母にはそれはよく世話になり、叔父には海水浴に連れていってもらったり、港に釣りに連れて行ってもらったりしたものである。そうして私は、祖母や叔父叔母たちの農作業をみていた。
父も祖母もすでに亡くなっているのだが、実は肝心のその叔父が今年に入って病に倒れてしまったのだ。歩けるまでに回復はしたものの、以前のように田畑での力仕事はできない。というわけで、田んぼを学びたい私たちにとっては渡りに船。先々月から叔父を見舞うかたがた、なかば強引に(笑)田んぼの手伝い約束を取り付けたのだった。
田んぼのための読書
ネット「田舎の本屋さん」が新著の特集ページを作ってくれている。また、山崎農研からも自著紹介の依頼があり、こちらは機関誌『耕』に掲載される予定。
いま、田んぼの仕事に頭を切り替えているので、資料がてらの読書を続けている。いやー面白いですね、田んぼ。自然を探求して森林までたどり着いて、山暮らしに到達して、スゴロクの「上がり」かな? なんて思っていたがとんでもなかった。田んぼとその周辺には深淵なテーマがごっそりと眠っている。それがまた、森林にフィードバックしてくる。
勉強するとなれば古典的名著を読んでおかねば。富山和子さんを読みながら、山村と川・農・森林を見つめなおしてみる。山村に住んで労働をともにすることで、その言葉ひとつぶひとつぶがよくわかるようになってきた。