宮武うどん、屋島からの風景


翌日は五色台の瀬戸内海歴史民俗資料館を・・・と思ったら、今日は月曜日で休館だった。屋島に変更することに。香川は初めてだというYさんを朝うどんにお連れする。9:30開店の宮武うどん店へ。ここはかけうどんの「ひやあつ」という食べ方(麺は冷たく、出汁は熱い)の元祖だ。機械は使わず昔ながらの足踏み、そして手打ち、すなわちガチの「The・讃岐うどん」である。会計するとショウガとおろし金が渡される。

久しぶりの宮武。開店直後なのにすでにお客さんでいっぱい。麺と出汁がいいのはもちろんのこと、天ぷらの油が良くて香ばしかった。

屋島寺は大師堂と本堂の間にタヌキの石像があり、奥にお稲荷さんが祀られている。興味を示したYさんが赤い鳥居の中に入っていったので、僕も初めてこの奥まで行ってみた。

本堂の隣にはコンクリートと石で作られた宝物館があり、本尊の十一面千手観世音菩薩(国の重文)はこちらに収められている。以前訪れたときは土日のみの開館だと思ったが、今日は空いていたので久しぶりに対面する。

屋島頂上からの高松の街並み。yuiさんが入院していた県立中央病院がよく見える。入院病棟の廊下の真正面に堂々たる屋島がそびえているのを、何度も見せられたものだった。

女木島(左)と男木島(右)。男木島には僕が手掛けた石垣が三つある。今をさかのぼること19年前、実家の水戸の母を奈良旅行に連れ出し、四国まで足を伸ばしてyuiさんに初めて会ってもらった。僕たち3人は「イサムノグチ庭園美術館」で落ち合い、屋島のこの展望台で同じ景色を見た。

奈良の薬師寺の境内で、僕は離婚して山暮らしを始めることを母に告げたのだが、母は激怒し、それから口をつぐんでしまった。

午後3時から、学芸員さんの解説つきで庭園の彫刻群をみる。ところが途中から雷雨。大粒の雨も降り出して、石におちる雨が彫刻に表情をつける。イサム家の中に入る。普通は中には入れないのだが、この日は雨が強く特別に入れてもらえるというラッキーな出来事が起こる。その内部はまたすばらしいものだった。

中略

ここは丸亀の古民家を移築改装したものなのだが、東洋的懐古趣味は微塵も見えず、西洋的な冷たさやごう慢さも感じない。イサムノグチの宇宙のかたち、その強靱さと優しさが漂っている。石の抽象彫刻はブランクーシらが先陣をきって始めたいわば西洋的前衛だ。日本の庭石には石そのものを彫刻する、という概念がなかった。イサムノグチの石はけっしていじり過ぎていない。でも、その作品には強烈な存在感とやさしさ、そして詩情がある。その石と、日本の古民家の木と土と竹、和紙の「あかり」が響き合うのである。いつまでもここに居たい、と思った。

ふたたび雨が上がる。四国村の喫茶店で涼み、母を八十八ケ所の「屋島寺」と屋島展望台に案内する。すでにねずみ色になった入道雲が動いており、五色台方面に稲妻が走っている。今日の泊りは旅館ではなく、僕が高松でいつも常宿にしているビジネスホテル。そこまでyuiさんに誘導してもらっているとき、バケツをひっくり返したような激しい雨が降る。バイクで先導するyuiさんのカッパ姿を見失いそうになるほどだった。(過去の日記から)

その年の9月、僕は東京の家を出て群馬で山暮らしを始める。あれから、いろいろなことがあった。この19年の間に僕は8冊の本を書き、家を建て、そしてyuiさんを失った。屋島は、深い深い思い出の場所である。そういえば、311をきっかけに高松へ移住した翌年の正月に雑煮を食べたのも懐かしい。

屋島・壇ノ浦とあん餅雑煮の巻

新しく誕生したアート建築「やしまーる」の中に、有料のアートがある・・・と聞いていたが・・・チケット売り場を見つけた。パノラマ館作品「屋島での夜の夢」と題される、円筒形の壁面に絵とオブジェを配置した「だまし絵」的作品、テーマは源平合戦(屋島の合戦)である。

お客は僕らを含めて4人だけだった。そのひと組みの男性が「あ、あそこにいるのが義経だ!」と言った。確かに、後ろの船に弁慶の姿が見える。義経は赤い鎧(よろい)を着て船から陸に飛び移る姿で描かれていた。

昼過ぎ、Yさんを高松駅に送る。夜は残り物でパスタ。

Gomyo倶楽部で使ったピザソースと牡蠣のオイル煮の残り、粉チーはペコリーノロマーノ。

明日は畑をしよう。


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