北鎌倉(2日目その1)/円覚寺、カフェ門と光泉の稲荷寿司


今日はメンバー皆でまず円覚寺を見に行くことになった。朝食は北鎌倉駅前にあるカフェ「門」でモーニングをいただく。

間口は狭いけれど、奥行きがあって昭和を感じる落ち着いた店内。僕は紅茶(アールグレー)で。

店内に『東慶寺 季(とき)の味〜北鎌倉 花の寺の庫裏(くり)から〜』という写真集を見つける。著者、井上米輝子氏は現・東慶寺住職の母上のようだ。昨年の「大地の再生」取材時に、寺内の白蓮舎という現代茶室ですばらしい食事のおもてなしを受けたことを思い出した。

2020.6.30/大地の再生@北鎌倉「東慶寺」2日目

門の隣に「光泉」という稲荷寿司の老舗があり、ひこの氏のはからいで昼食はそこに注文。ちょっと楽しみ♬ この駅裏の路地から線路沿いに円覚寺に向かう。

角を曲がってすぐ、道脇が竹垣で仕切られており、矢野さんが解説を加える。さすが鎌倉には一般住宅にもこのような古風な垣根が残されている。とはいえ板屋根は裏側からビス止めが施されていたりもしている。

踏切を渡ろうとすると今度は地質学者の掘先生が、池に渡された太鼓橋についての解説をしてくださる。橋はすでに結界を意味するが、太鼓橋にすることで奥が見えないという異界を暗示する(橋板の裏にはお経が書かれていることも多いそうだ)。その両翼の池も浄土(異界)へ向かうという意味を深める。だから池の水は澄んでいるべきものだが、残念ながら淀み濁っていた。

拝観料は300円。僕は昨日入ったばかりだが、今回は矢野さんが払ってくれた。入場してすぐ右手の山から水路が流れてきているのだが、それは岩を削って水路に仕立てた風なのである。

そして驚くことに、底面に甌穴(おうけつ)ができていた!で、穴の中にちゃんと石が入っている(笑)。

山門と本堂の間。草はまったく生えていない。庭師さん、修行中の若い僧の方々がきれいに掃除しているようだ。

国宝、舎利殿前。堀先生が持参の方位磁石が組み込まれたスコープで軸線を確かめると、真北に向いているそうだ。舎利殿は鎌倉の建造物のなかで唯一の国宝である。図版で見ても極めて美しく、とくに軒裏の扇垂木が印象的である。特別開扉のときしか見れないが、神奈川県立歴史博物館に内部の当寸復元模型があり意匠を間近に確認することができるそうだ。

鎌倉を含む三浦半島は火山活動で噴出した⽕山灰や礫などが海中に堆積し、それが長い年月をかけて地上に隆起したものであるという。地層の面に対して斜めの縞模様が見える。これを斜交葉理(しゃこうようり)(斜層理・クロスラミナ)という。地層が流れのある浅い海底に堆積するときにできた縞模様である。

再び入り口の池(白鷺池/びゃくろち)に戻る。掘先生がリモートで周遊観察していた先生方に解説を語る。

ここでこの寺の開山・縁起について記しておく。円覚寺は鎌倉五山第二位(臨済宗円覚寺派大本山)。鎮護国家と元寇(文永・弘安の役)の犠牲者の菩提を敵味方なく弔うため、1282年(弘安5年)八代執権、北条時宗によって建立され、開山には宋の禅僧、無学祖元が招かれた。

この時代、貴族政治から武家政権へと激変しただけでなく、世界情勢も急変しておりモンゴル民族が中国大陸をも支配し、大帝国を築き上げていた。その元帝国(蒙古)の初代皇帝フビライは日本をも服属させようと軍隊を送り込んできたのである。

この国難に際し、鎌倉武士の団結を高めるために執権に抜擢されたのが北条時宗であった。驚くべきことに、このとき時宗は満16歳であったという。最初の来襲は時宗23歳のときであった。船で襲ってきた蒙古軍4万人の兵士に鎌倉武士の決死の戦いが彼らを撤退させた(文永の役)。

その後もフビライは日本を服属させるために何度か使節団を送ってきたが、時宗はこれらを斬首に処した。そして弘安4年(1281年)、時宗30歳のとき、フビライは再び総力をあげて日本を襲う。蒙古軍の艦隊 4,400艘、兵士・水兵約15万人という世界史上最大規模の兵力だった。

そして約3ヶ月をかけた戦いの末、戦いの地九州北部を巨大台風が襲い、蒙古軍は壊滅したのである(これを「神風」と呼び後世まで伝わる)。翌年、円覚寺を建立。その2年後34歳で時宗は没する。死因は結核とも心臓病ともいわれている。

鎌倉で最初に禅の修行を積んだのは時宗の父、北条時頼であった。明治期辺りまでは、時宗の采配は日本の歴史上最大の行為と言われていたという。時宗夫人もまた熱心な修禅者であり、夫の死後、円覚寺の真向かいの山中に尼寺を創建した。

それが現在の松ヶ岡「東慶寺」である。

東慶寺の宿舎に戻ると奈良女子大の藤田先生がいらっしゃっていた。藤田先生は中世の住宅史がご専門の建築史家であり、鎌倉文化に詳しい。先生の話を聞き質問を交えながら光泉の稲荷寿司をいただく。

この稲荷寿司がめっっぽう美味い。甘いのだが、酢飯とのバランスも絶妙で、なんとも言えない深みとこくがある。ひとつひとつ、紅生姜をアクセントにしながら、胃袋に消えていくのを惜しむように食べた。のちに調べてみると光泉は昭和26年(1951)から続く老舗の名店で、かつて北大路魯山人や小津安二郎もこの稲荷寿司のファンだったそうだ。

魯山人は北鎌倉の駅もまだない頃、鎌倉山崎に陶芸の窯を造った(※)。「光泉の稲荷寿司の類希な品のよさが気にいった魯山人は、小腹の空いたときや急な来客には於里辺の爼皿や備前四方鉢に盛りつけて、客に振る舞った」という(黒田草臣氏のブログより)。

※このとき魯山人が建てた母屋「春風萬里荘」は、現在茨城県笠間市の芸術村に移築されて日動画廊が一般公開しており、僕は2度ほど見に行ったことがある。

(その2に続く)


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