午後から矢野さんの案内と解説で東慶寺を周る。敷地下部の外周に桝が点々と配置されていた。ここは雨になると水浸しになる場所だったという。僕は東慶寺の施工は昨年6月の最初の2日間しか取材していないのでこれは初耳だった。
つまり浅くコルゲート管が県道の方にまで配置されているのだ。どうやら谷戸の最終排水が境川支流へとうまくつながっていなかったらしい。
いちど県道まで出てから再び正門から敷地内に入る。注目すべきは正面階段下にある小池である。昨年6月当時は泥濁りの池であったが・・・
すっかり澄み切って、オタマジャクシが群れているのが見えるのだった。午前中、円覚寺の三つの濁り池を見てきた一行はさすがにこれには驚いている。
階段を登って境内に入る。
昨年は草のない裸地も見えていたが、一面に苔が生え雑草が混じる地面に。
本堂前の池。
水が澄んでコウホネが開花していた。
この池は建物裏側の岩壁の側溝と、回廊の下を通してつながっている。ここを開いて通気通水を確保すし、池の水の出口も塞がないことで、水は澄んでいく。
本堂の御本尊、釈迦如来坐像を皆で参拝。東慶寺はかつて駆け込み寺として知られ、明治期までは尼寺であった。前記事にも記したが、建立したのは北条時宗夫人の覚山尼である。南北朝時代には後醍醐天皇の皇女、用堂尼が住職をつとめ「松ヶ丘御所」と呼ばれた。室町時代後期には「御所様」、江戸時代には「松岡御所」とも称した格式のある寺である。
もうひとつ特徴的なのは、境内に禅研究の拠点となった「松ヶ丘文庫」を擁していることだ。禅仏教を西洋世界に広めた鈴木大拙が創設し、大拙は晩年ここで研究生活を送った。現在も「公益財団法人松ヶ岡文庫」として大拙の書籍等が管理されている。
その松ヶ丘文庫への入り口を過ぎると建物はなくなり、谷戸の上流部に墓が点在する森閑とした谷間が広がる。岩につく苔の状態もだいぶ良くなったようだ。
空気のよどんだ、水はけの悪い場所にはゼニゴケがはびこるが、状況がよくなるとスギゴケに変わっていく。その兆しが観察できる。
後醍醐天皇の皇女、用堂尼の墓へ。
鎌倉では古い墓、格式ある墓は「やぐら」と呼ばれる洞穴に造られている。
その周囲に張り巡らされた鉄柵の下に水脈を切る施工をしたが、はやくも落ち葉や泥で詰まっているのをメンテナンス。
普段は水は流れないが、このくぼみに空気流が流れることが大事。
谷戸の最奥地。廃仏毀釈の影響によって荒廃した東慶寺を再興した釈宗演禅師の墓。釈宗演は建長寺・円覚寺両派管長でもあった。門下には政財界人、哲学者、文化人が多く鈴木大拙もその一人。他に西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、小林秀雄、高見順などの墓がある。
横井戸が掘られている。水量は少なく、下流への水脈は落ち葉の堆積の中に消えているようだった。
墓苑いちばん奥の山際、凹地で2019年の台風により木々が倒れ、土砂が墓にまで流れた場所。
焼き杭を打ち抵抗柵を階段のように組んで処置。今年の長雨でも土砂の流出はまったく見られない。
その下部、斜面変換点にある水路溝。やや過剰に置かれた水勢止めの石を矢野さんが掘り起こす。ほんのわずかな違いであり、移植ゴテ一つでできる作業なのだが、状況を捉えたメンテナンスが欠かせない。
再び建物に戻る。裏側の斜面との間。側溝のコンクリートを砕いて破片をその中に配備してある。
この斜面には松ヶ丘文庫に続く歩道が伸びているのだが、前回の施工の初日に大木が倒壊して道を塞いだ。寺側は撤去を考えたが矢野さんは倒木をトンネルのようにそのまま活かすことを提案。
といわけで木杭のオンパレードで固めることとなった。
現在はこのように木杭と倒木のオブジェのようなトンネルになっている。
その連続木杭は建物群のレベルにまで及んでいる。
こうして裏側を巡回しながら、出発点にまで戻る。谷戸の広大な敷地にわりには雨水のはけ口は貧弱で、水路の上部は草に覆われてしまっている。常に矢野さんが力説するように、開削水路の上部は空気流が寄り添うことが大切。というわけで草刈りをして終了。
次の目的地、Y邸へ移動する。
(2日目その3に続く)