大地の再生@北鎌倉「東慶寺」/1日目


前夜は鎌倉市内の宿に泊まり、打ち合わせを深夜まで。早朝、コインパーキングに入れた車を出して現場へ向かう。今日の現場は北鎌倉のお寺「東慶寺(とうけいじ)」である。北鎌倉の寺といえば真っ先に円覚寺が思い浮かぶが、東慶寺は道を挟んだ斜め向かいにあり、円覚寺と同じく鎌倉特有の砂岩質の谷戸地形にそって開かれた名刹である。おりしも鎌倉初夏の代名詞、アジサイの季節。

しかし、全体に緑に精彩がなく、アジサイもその花がうなだれている。矢野さんたちが6月初旬に視察したときの様子をあらかじめ見ていたが、写真からもその詰まり具合はかなりの重症と感じられた。若い和尚(住職)は早くからその庭の疲弊を察し、現代の造園手法でなくもっと根本的なやり方が必要なのでは? と感じていたそうだ。

かなりの面積を今日1日で終わらそうという強行スケジュール(明日からは総決算的な上野原ライセンス講座が組まれている)。よほど手際よく進めないと完遂できないだろう。重機は2台。主要メンバーも各地から集結している。まずは自己紹介、そして和尚の今回に至る経緯と挨拶がある。

各々作業に入る前に本堂へ参拝。本尊の釈迦如来坐像に手を合わせる。東慶寺は歴史的にみて女人救済の縁切り寺として有名だ。後醍醐天皇皇女が護良親王の菩提を弔うため五世住職となり、御所寺、松ヶ岡御所とも呼ばれ、鎌倉尼五山第二位という格の高い尼寺になった。

その後、明治の廃仏毀釈で一時荒廃したが、明治後半に釈宗演(しゃく・そうえん)によって再興された。特筆すべきは釈宗演を師と仰いだ鈴木大拙がこの地に仏教研究のための「松ヶ岡文庫」を創設し滞在したことである。鈴木大拙は海外に禅仏教を広めた先駆者であり、ここ東慶寺に墓がある。

また大拙と共に松ヶ岡文庫の創設に当たった当時の東慶寺住職・井上禅定は、1966年の古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)の制定に尽力するなど鎌倉の自然保護運動でも活躍した。

周囲の苔は色が悪く、スギゴケではなく詰まった土に適応したゼニゴケが優勢になっている。

泥アクがかさぶたのように地面を覆った場所も。

本堂の裏側は鎌倉谷戸の岩壁であるが、建物のキワはコンクリートのU字溝が打たれ水脈の連続性が断たれている。

その岩壁にはイワガラミがびっしりとついて花を咲かせ見事だった。湿ったところにはイワタバコも多い。結露水分をうまく蓄える凝灰質砂岩、海からの湿った空気を山が受け止め、その中でも特に湿った空気を貯めやすい谷戸地形。これらの条件が独特の植物相を作っているのだ。寺院の庭はその特質を利用して周囲の自然と調和する苔庭や植栽を発展させてきたのだろう。

逆に言えば現代のコンクリート土木が、その水や空気を通しやすい凝灰岩質砂岩にとって変わり、重量で圧迫しながら水や空気の流れを止めてしまった。いまその弊害が顕著に出始めている・・・。

矢野さんが重機に乗り工事が開始された。最初の一撃は門前のキンモクセイ周りだった。縁石や門柱とコンクリートの界にも容赦無くブレーカーが穴を穿つ。

地面穴には点穴の処理。点穴をつくることで地中に空気が動き根が呼吸しやすくなる。

その穴が崩れないいように、また乾燥を防ぐために、炭、枝葉などで中を埋める。これらの有機資材は腐朽とともに微生物や菌糸などを発達させる。

マンホールを開けて既設水路のゆくえを確認するのも大事な仕事。そしてU字溝やコンクリート枡にも効果的な穴を開けていく。重機が入らないところはハンドブレーカーやコンプレッサーの削岩機で。

建物裏手にももう一台の重機が作業開始。

階段下の池。泥さらいの作業。社寺の境内のレベルの最下部にはこのような池があることが多い。通気・通水の調整場として極めて重要な役割をしているのだ。が、近年では埋め立てられ駐車場などになることが多い。

泥は全部引き上げることはせず、杭と粗朶で片側に盛ってL型の澪筋を作った、これで濁りが取れていく。

マツの周囲にも点穴。

持参した炭や有機資材を使って、手分けして点穴の詰め込み作業。

昼食は境内の「白蓮舎」と呼ばれる立礼席のお茶室でいただくという、なんとも贅沢な時間。出張の出前調理(茶室なので調理場がある)とのこと。しかも禅寺に相応しいすばらしいメニューだった。

午後、私は単独で葉山方面に車で向かい、2019,4/14と2019,5/18に取材した横須賀市秋谷のK邸「植栽土木」造成工事のその後を撮影に行く。見違えるように植栽が斜面に一体化しており、工事後一年ちょっとしか経っていないというのが信じ難いほどの端正な佇まいになっていた。ただ、対岸の自然林が一部枯れ始めているのが気になった(レポートは別項で)。

16時前に再び東慶寺に戻る。矢野さんチームは寺に隣接するカフェとの間にある通路の作業中。

根元が腐った門柱を杭で直したり、路面や石垣基部の側溝を入念に調整作業。石畳や路面土を均した後、セメント粉をまき、炭チップをまいて仕上げ。

建物裏ではコンクリートの穴空けが延々と作業されている。

その後には炭と有機物(粗枝葉など)が入れられ、砕かれたコンクリートはあたかも自然の沢に置かれた石のように、調整・敷設される。

いよいよ境内のメインストリートへ。縁石と地面のキワに移植ゴテで穴を開けていく。

表面には泥アクの皮膜が覆って、これが空気と水の浸透を妨げている。それをちょっと掻いてやればよい。ただしこのままだとまた雨のたびに皮膜が戻ってしまうので、穴には有機資材をしがらみで入れ、周囲も炭チップでグランドカバーをしておく。

ここは重機が入れないのでハンドーオーガーで穴を開けていく。

そこに炭と粗枝葉。

炭チップの混合割合はこんな感じ。

さすがにハンドオーガー1台だけでは時間切れになった。和尚と協議して明日も作業を続行することに。予定されていた上野原ライセンス講座は1日開始を延期し、参加予定者でこちらに回れる人員は参加してもらう手配をする。

ところで、今朝私たちが現場に入る前(明け方?)建物裏手の斜面のこの広葉樹の大木が倒壊していたらしい。その奥には人工林のスギが倒れていた。鎌倉の山林環境もそうとうヤバイことになっている。

後で知ったのだが、この下には鈴木大拙や井上禅定らが創った「松ヶ岡文庫」の研究所に向かう通路(階段)があるのだった。 誰も事故に巻き込まれなくて良かったが・・・。しかし、あたかも「お知らせ」のような、象徴的な出来事だった。

(続く)


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