四万十式作業道取材8.(加藤清正公、弊立神宮ふたたび)


昨夜は小国町の道の駅で車中泊。途中、湯布院でラーメンを食べたりした。朝、取材先の熊本に着き、取材仕事を終えて熊本城を見に行く。今年がちょうど築城400年なのだそうで、明日からイベントが始まるらしい。

middle_1192968117

それにしてもこの城は美しい。造ったのは名将加藤清正。「清正公(セイショーコー)さんは土木の天才だ」と、熊本の人は言う。庶民の暮らしの死活を分つ堤防や水路、石垣などに加藤清正は卓越したアイデアをみせた。

もう一つの名所は水前寺公園。この公園の見どころは「水」である。池の水が阿蘇山の湧水。池の端に湧き出ているところがあるのだ。だから、池の水は澄んでいるし、鯉といっしょにウグイが泳いでいたりする。

しかし排水溝の掃除をしていたおじさんに聞いてみると、近年その水量は激減。どでかい県庁舎を造ったこと、バイパスに郊外店を造ったこと。それによって大量の水を使っていたり、工事で阿蘇の伏流水の水脈が断ち切られたりしたのが原因ではないか、との事。

middle_1192968561

次の取材先、宮崎へ。途中、阿蘇の地獄温泉に入る。そして弊立神宮に立ち寄る。まさに夕日が沈まんというタイミング。巨木スギ木立から日輪がやわらかな光を放つ。

middle_1192968608

弊立神宮にはこんな思い出がある。過去の日記(要約・抜粋)から。

だれかのニューエイジ系の書籍の中で、この宮のことを知った。1990年代当時の僕は、宗教、オカルト、ニューサイエンス、古代史、UFO、などの本を片っ端から読んでいた──というか読まされるごとく目の前に現れる──そんな時期だった。1996年新春、電車とバスを乗り継いで、初めて弊立神宮へ行ってみた。

そこは巨木に囲まれ、清々しく、神気とでもいうのか、神社としては普通の佇まいだが、この場所には本当に「何か」があると感じたものだ。新年の参拝客がちらほらと出入りしており、中にはちょっとかぶれたような人も見受けられたが、宮司さんはすべてを受け入れるような、しかしどこか毅然とした感じの方だった。

参拝した後、周囲をぐるりと散歩して、再び小さな神殿を眺めていると、扉が開かれて御祓いを受けていた人たちが出てきた。そして一緒に出てきた宮司さんが、僕を見るなり中に入るようにと言ったのだ。神殿の内部や板絵など見たかったので、言われるままに靴を脱いで上がると、「さあ、あなたもここに座って」と藁で渦巻き形に編まれた座ぶとんのようなものに座らされ、白いチョッキのようなものを着せられ、どうやら次の段の御祓いの仲間入りをしてしまった。

巨樹のある神域は好きで神社仏閣はよく訪れる。が、中に入って御祓いや祈祷などを受けたことはなく、興味も手伝ってなすがままに身を委ねていると、宮司さん自らの太鼓で御祓いが始まった。

祝詞が読まれ、一人ずつ榊(さかき)を持って神殿の最奥まで進み、見よう見まねで二礼二拍手。興味深かったのは、最奥に進み出るとき、中央に置いてある小さな木箱の横蓋を宮司さんが開けるのだ。中には金属光沢の石のような物が入っていて、これがこの宮の御神体なのか、とにかく一瞬だけ見せられるその石は忘れられない輝きを放っていた。

一通り終えると、宮司さんの挨拶とお話があり、それは森林の話だった。

戦後の拡大造林によって日本の森の生態系が大きく乱されたこと。その人工林(スギ・ヒノキ林)の手入れが遅れて日本の森が荒れていること。それは森だけの問題にとどまらず、農業や漁業にも影響を与え、有明海の漁獲高が激減したのを森の荒廃に結び付けた人たちが、広葉樹の植林を始めたりしていること。この地域も川が枯れて困っていること。しかし不思議なことに、この神社の清水は枯れずに湧き続けていること。

分水嶺の聖地で丘のような所にある宮なので、それは確かに不思議なことに思われた。ともあれ、このような場所で、ずっと気にかけていた森林の話を聞くとは夢にも思わず、印象深い幣立への旅だった。

そして数カ月後、友人からある市民グループの植林の誘いを受け、僕の森林通いが始まったのである。

市民運動というのは集団の世界だから、僕のような性格のものには向かない。が、この森林、人工林の問題は、日本の環境問題の裏の核心であって、やがて誰もが目を向けざるをえないと感じていたので、勉強と啓蒙のためのイベントを起こし始めた。これは片手間にできる仕事ではなく、市民グループの人間関係にもうんざりしかけた頃、2回目の幣立行きがやってきた。

あの日と同じように参拝。そしてまた、宮司さんのお話が始まった。

このときは、一枚の写真のパネルを見せて話し始めた。それは本殿の右手にある日本一の巨ヒノキの不思議な写真だった。この宮に神代からあるという伝説があり、数年前の台風で折れ、残骸の塔のように佇んでいる枯れた巨木だ。薄暗い時の撮影らしいのだが、木の先端から緑色のオーラのようなものが吹き出て、空に向かって帯を描いているのだ。

宮司さんはこんな意味のことを話された。

──いつ誰がこれを撮ったのかはさておき、この世の眼に見えるものはほんの一部であり、人の眼に見えない事象がたくさんある。神代から伝わる樹が枯れるというのも大変なことなのだが、これは日本の森が発する、救いを求めるメッセージであると思う。皆さん一人ひとり、今が行動のときです!

それはここに来た僕のために森の神様が発した言葉のように思われ、脳天から電撃のように身体を突き抜け、気が付くと膝の上の握りこぶしに涙がポタポタと落ちていた。

再び森の運動を続ける決意で東京へ戻った。やがて活動が知れ渡り始め、それとリンクするような仕事もやって来るようになる。市民運動の力関係や構造もわかってきて、自分がやるべきことが見えてきた。

あの時の幣立神宮のお札を仕事部屋の本棚の上に置き、そこを神棚代わりに毎朝水を差し上げ「ひふみ祝詞」を唱えていた時期がある。そして宮司さんから貰った巨ヒノキの小さな破片は、未来樹2001でこなしたイベントの時には、いつも胸ポケットに入れていったものだ。

このとき、僕は東京の森林ボランティアの人間関係と決裂し、四面楚歌に遭いながら間伐のイベントを成し遂げた苦しい時期であった。それだからこそ間伐技術書を書き上げることができたのだが・・・。

そして今ここにいる。新たな座標に向けて走り始めている。後悔はない。

***

▼原文は作家・三橋一夫氏への手紙(2000.3.1付)による。

M先生への手紙

ごぶさたしております。日の出町からお手紙差し上げます。

「うぶすなカレッジ」最終日はどうしても都合悪く、出席できず、失礼いたしました。言霊の話はいつも興味津々なので残念なことでした。『切抜御免帳一集』入手したく、1部お送り下さい。

先日、ちょっとヤバイ(?)イベントを一つ終えまして、ホッと一息入れているところです。そのレポートと、近作のイラストマップを同封いたします。お楽しみ下さい。

森の活動もそろそろ5年目に入ります。ここに僕を連れていったのは、ずっと元をたどれば、少年時代の蝶の採集や釣りの思い出あたりになるのでしょうが、もう一つの大きなきっかけは、4年前の九州の幣立神宮に参拝したときの思い出です。

一度、先生にこの話を書いておこうと思います。

だれかのニューエイジ系の書籍の中で、この宮のことを知り(当時の僕は、宗教、オカルト、ニューサイエンス、古代史、UFO、などの本を片っ端から読んでいた──というか読まされるごとく目の前に現れる──そんな時期でした)、九州の女房の実家に帰った折、僕ひとりで電車とバスを乗り継いで、行ってみたのでした。

とてもいい所でした。巨木に囲まれ、清々しく、神気というのでしょうか、神社としては普通の佇まいですが、この場所には本当に「何か」があると感じたものです。新年の参拝客がちらほらと出入りしており、中にはちょっとかぶれたような人も見受けられましたが、神主さんはすべてを受け入れるような、しかしどこか毅然とした感じの方でした。

参拝した後、周囲をぐるりと散歩して、再び小さな神殿を眺めていると、扉が開かれて御祓いを受けていた人たちが出てきました。そして一緒に出てきた神主さんが、僕を見るなり中に入るようにと言ったのです。神殿の内部や板絵など見たかったので、言われるままに靴を脱いで上がると、「さあ、あなたもここに座って」と藁で渦巻き形に編まれた座ぶとんのようなものに座らされ、白いチョッキのようなものを着せられ、どうやら次の段の御祓いの仲間入りをしてしまったのです。

巨樹のある神域は好きで神社仏閣はよく訪れるほうですが、中に入って本格的な御祓いや祈祷などを受けたことはなく、興味も手伝ってなすがままに身を委ねていると、神主さん自らの太鼓で御祓いが始まりました。

祝詞が読まれ、一人ずつ榊を持って神殿の最奥まで進み、僕も見よう見まねで2礼2拍手。興味深かったのは、最奥に進み出るとき、中央に置いてある小さな木箱の横蓋を神主さんが開けるのです。中には金属光沢の石のような物が入っていて、これがこの宮の御神体なのか、とにかく一瞬だけ見せられるその石は忘れられない輝きを放っていました。

一通り終えると、神主さんの挨拶とお話がありました。

それは森林の話でした。

戦後の拡大造林によって日本の森の生態系が大きく乱されたこと。その人工林(スギ・ヒノキ林)の手入れが遅れて日本の森が荒れていること。それは森だけの問題にとどまらず、農業や漁業にも影響を与え、有明海の漁獲高が激減したのを森の荒廃に結び付けた人たちが、広葉樹の植林を始めたりしていること。この地域も川が枯れて困っていること。しかし不思議なことに、この神社の清水は枯れずに湧き続けていること。

分水嶺の聖地で丘のような所にある宮なので、それは確かに不思議なことに思われました。ともあれ、このような場所で、僕がずっと気にかけていた森林の話を聞くとは夢にも思わず、とても印象深い幣立神宮への旅でした。

そして数カ月後、友人からある市民グループの植林の誘いを受け、僕の森林通いが始まったのです。

市民運動というのは集団の世界ですから、基本的に僕のような性格のものには向きません。でもいろんな人に出会う楽しさがあります。設計家、林学を学ぶ女子大生、公務員、サラリーマン、主婦、林業家……。この世界に足を踏み入れてから、信じられないくらい友人が増え、住所録が膨らみました。嫌だったのは、やはり階層のようなものがあり、親分のいうことは絶対、という気配があったこと。それとプロとしての僕の仕事が、ボランティアの善意の名のもとに、無報酬で使われることです。

ただ、この森林、人工林の問題は、日本の環境問題の裏の核心であって、やがて誰もが目を向けざるをえない重大な問題だと感じていたので、減り続ける収入を心配しながらも、未来樹2001という自分の会まで立ち上げ、勉強と啓蒙のためのイベントを起こし始めたのでした。

ところが、人を集めて旅をして林地見学や体験林業をするなどどいうことは、考えてみれば片手間にできる仕事ではないのですね。労力の割に酬われるものがあまりに少ないばかりか、家族にも大変な負担をかけてしまうのです。だんだんと悩み始め、市民グループの人間関係にもうんざりしかけた頃、2回目の幣立行きがやってきました。

それは、正月の帰省の旅でしたが、九州に独りで住む妻のおばあちゃんを、東京から迎えに行く旅でもありました。眼を患って不自由になり、独り暮しが不可能になったおばあちゃんを、ちょうど僕たちの住むアパートの下の部屋が空いたので、そこに来てもらおうということになったのです。おばあちゃんにとっては故郷を捨てる旅であり、僕たち家族にとっては九州への最後の旅でありました。

引っ越しの準備や手続きの合間に時間を作り、今度は妻と一番下の娘を連れて、あの日と同じ道のりで幣立神宮へ向かいました。一度目の話をしたところ、妻もぜひ行きたいと言ったのです。
あの日と同じように参拝、散策し、今度は夫婦で新年の御祓いを受けました。そしてまた、神主さんのお話が始まりました。

今度は、一枚の写真のパネルを見せて話し始めました。それは本殿の右手にある日本一の巨ヒノキの不思議な写真でした。この宮に神代からあるという伝説があり、数年前の台風で折れ、残骸の塔のように佇んでいる枯れた巨木です。薄暗い時の撮影らしいのですが、木の先端から緑色のオーラのようなものが吹き出て、空に向かって帯を描いているのです。

息をのんで見つめていると、神主さんは口を開き、こんな意味のことを話されました。

──いつ誰がこれを撮ったのかはさておき、この世の眼に見えるものはほんの一部であり、人の眼に見えない事象がたくさんある。神代から伝わる樹が枯れるというのも大変なことなのだが、これは日本の森が発する、救いを求めるメッセージであると思う。皆さん一人ひとり、今が行動のときです!

それは東京からやってきた僕のために、森の神様が発した言葉のように思われ、脳天から電撃のように僕の身体を突き抜け、気が付くと、膝の上の握りこぶしに涙がポタポタと落ちていました。

再び森の運動を続ける決意を固めて東京に戻りました。少しづつですが、僕がこういうことをやっていることが知れ渡り始め、それとリンクするようなイラストの仕事もやって来るようになりました。三年ほど経つと、この森の市民運動の力関係や構造もだんだんわかってきて、自分がやるべきことがおぼろげながら見えてきました。

あれから日本中を旅しました。

そして今、僕と家族は日の出町の家に住んでいます。この家がまた、素晴らしい家なのです。築4年という中古の物件で、中は新築同然(先住者が離婚で手放したため)、小さな家ですが、外観もシンプルで丁寧に仕上げられており、柱や土台にはなんと国産のヒノキが使われているのです。この家の周辺には森の運動にかかわる友人知人もたくさん住んでいるのですが、僕たちは不動産屋を訪ねて正攻法で家探しをし、2軒目にこの家に出会ったのです。考えてみれば、それは森に関わった4年間の減収をおぎなって余りあるいい買い物であり「きっと森の神様からの御褒美だね」などと、今でも妻と語り合ったりするのです。

あの時の幣立神宮のお札を、僕は仕事部屋の本棚の上に置き、そこを神棚代わりに毎朝水を差し上げて、先生の本で教えていただいた「ひふみ祝詞」を唱えています。そしてオーラを発した巨ヒノキの小さな破片を貰ったので、ここ一発のイベントの時には、いつもそれを胸ポケットに入れていくことにしています。

樹と森は、知れば知るほど面白く、発見と喜びがあります。
まだまだ森の運動もこれからです。

ところで我が家の6キロ程先に、町営「つるつる温泉」というのがあるのを御存じですか? 武蔵五日市の駅からユニークな送迎バスが出ています。

先生の好みじゃないかもしれませんが、一度お出かけ下さい。湯上がりのお茶など用意してお待ちしております。それでは……

(2000.3.1 大内正伸)

 

2回目の旅のときのスケッチブック(大内正伸 画)

***

M先生(三橋一夫)

昭和三年、大阪生まれ。三歳のとき、父の転勤で東京へ。滝野川第七尋常小学校で澁澤龍彦、三木多聞と同窓。東京府立第二〇中学校第一回入学生。中島飛行機三鷹工場に勤労動員、東京高等師範学校卒。小学教員を経て人形劇団プ-ク文芸部員に。退団後、雑誌編集記者を経てフリーの音楽評論家、日本の古代史、コンピュータ関係その他の分野にわたる多数の著書がある。

音楽:『60年代のボブ・ティラン』『ウォッチング・ザ・ニューミュージック』『ぼく、雑音大好きです』他
古代史:『神社配置から天皇を読む』『ふつうの人の神道』他
コンピュータ『四畳半パソコン奮戦記』『新・日本語入力術』他
その他:『日本人の全世代読本』『手のひらが病気を治す 』(挿画/大内正伸)他
五葉通信:日本で未紹介の訳書、復刻本をワープロ印刷・注文販売。手紙の中の『切抜御免帳一集』はその中の一冊


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください