朝、砥部焼の窯元を見に行く。絵付けされた陶板。やや厚手の白磁に、呉須と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴。砥部は江戸時代「砥石」の産地として栄えた。その砥石くずを細かく砕いた土を使い磁器を作ったのが起源だという。道後温泉の浴室にもすばらしい陶板絵画があって独特の気品を醸し出している。
実は群馬在住のおり、伊香保にある竹久夢二の記念館で購入した一輪挿しが砥部焼だった。以前、道後で買った湯飲みも持っている。今回発見したのは風鈴。叩きが木なのだがとてもいい音がする。窯元は川沿いにあり、小さな個人工房が多いようだった。むかしは水車で石を砕き、周囲に薪が豊富だったことも砥部焼を発展させた一因という。
近くに久万林業で知られる人工林地がある。が、道から見るかぎり手入れが行き届いた山は少ない。ここでも倒壊・崩壊跡に広葉樹が入り込んでいる。枯れた木がある。右上はマツのようだが、左はスギだ。「クマはぎ」かもしれない。この冬はクマ棚の調査をしてみようと思う。
一見青青としているスギ林も中に入るとこの通り。台風と雪でずたずたに折れ、大小乱れた、貧弱な質のスギがスカスカに林立。もしくは間伐遅れで真っ暗(次の被災を待っている)。ようするに間伐がうまく進んでいないということだ。これでは道を入れてもろくな収穫にならない。
被災待ちの林分は、危険でもある。切り捨てでも劣勢木の間伐さえしておけば、良木がそろい、山も健全になり、収量(材積)が上がる。たとえば10年前に鋸谷式間伐を施した山と、まったく間伐をしなかった山では、材積が倍も違ってくる。切り捨てしても、残した木が太るので、逆に収量が増えるのだ。だから皆伐せずに、また木を残すことができる。これも「植えない」森づくりの一つである。
四国八十八箇所45番「岩屋寺」へ。車止めから20分の登り。「遍路転がし」と呼ばれる急峻な山道の途中に四国では珍しいトチノキの大樹があった。
岩屋に食い込むように建てられた本堂、その岩は三波石(緑色片岩)が埋め込まれた礫岩だった。
本堂から洞窟に続く石垣の表情は、私たちが山暮らしをしていた群馬の神流川流域のものとそっくりだ。
四国には大断層、中央構造線が走っているが、その断層の南側は三波川変成帯といい緑色片岩が分布する。四国ではこれを「あおいし」と呼び、とくに徳島の阿波の青石は庭石として有名で石庭によく用いられる。仁淀川(面河川)上流も節理のある青石が。
石鎚スカイラインに回ってみる。眼前に迫る石鎚山(これは南突峰にあたる)。
「よさこい峠」から高知側へ。その峰の途中に大きな2本のブナがある。雪で枝が下がっており、亀裂が入っている。標高は1600mくらい。
ヤマボウシが咲いていた。
大川村に下りる。ダムに挟まれた吉野川源流部は水がなく青石の巨石がごろごろしている。庭石に釣るにはちょっと青みが足りないか。
2005年に集中豪雨で山林崩壊が頻発したとき、この大川村では土木工事だらけであった。その爪痕は広葉樹が被さって、もう解らなくなっている。5年も経つと土木構造物もすっかり馴染んでいる。しかし笑ってしまうような大きな堰堤ができていたりして考えさせられる。
そして人工林は相変わらず間伐遅れのままだ。早明浦ダム下の山で皆伐跡地を見かけた。伐り残された杉檜はツマヨウジのように細く、緑の生き枝が先端にしか付いていないのが解る。非常に不健全な山で、これでは木が太ることができない。強度間伐で「生き枝が樹高の半分まである木」に回復させねばならないのだが、ここまで荒廃するとすでに手遅れ。細かろうが皆伐して収穫し、実生の広葉樹に変えていく(写真では皆伐跡地がすでに自然緑化している)か、巻き枯らしでもなんでもして人工林の中に光を入れないといけない。「巻き枯らしは木が可哀想」などと言っている場合ではない。崩壊して人命を巻き込んだらあなた責任とりますか?
高知でもタケが広葉樹に負け始めているようだ。尾根の照葉樹が一人勝ちを始めようとしている。いったんタケに負けたと思われたスギ林も、樹高が高くなり、接点では竹の樹高を越えている。下や左右の林縁からネムノキなどがタケを攻め始めている。光の奪い合いもあるが、おそらく地下の根の部分でもせめぎあっているのではないだろうか。
吉野川の核心部である大歩危小歩危を通って帰る。祖谷ソバを食べてみた。もそもそとした田舎ソバだった。蕎麦の風味はいくらか。汁が讃岐うどんと同じでパンチがないな。
池田から猪鼻峠を通って讃岐平野に戻る。南から見た讃岐富士。夕日を浴びて美しい。
これも讃岐七富士の一つ、羽床富士(はゆかふじ)=堤山。標高201.55m
やがて屋島が見えて、高松に帰還したことを実感する。
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