先日の滋賀ワークショップ旅で自分用に買ったお土産「琵琶湖産もろこの佃煮」を開封。もろこはハスと同じようにコイ科の魚であるが、淡水魚の中でもずば抜けて旨い。ほんとうは素焼きしたものがいちばん好きなのだが、佃煮しか見つからなかった。
コアユとゴリの佃煮も買った。長く滋賀に通っているが、意外にも滋賀県の人は琵琶湖の淡水魚をあまり食べていないように思う。この日本において美味しい淡水魚を食べることができるという貴重さ・・・灯台下暗し的に知らないのかも?
鮒寿司はこの佃煮と別のメーカーのものだが、その関連ホームページで作り手のおばさんのインタビュー記事をみた。「煮きたてはおいしいのに時間が経つと生臭くなる」「新鮮な魚を使っていることと作り置きをしないこと。たくさん作ると食べるまでの時間がかかって、魚の脂が出てきてしまう」と書かれている。
ということは、佃煮というのは保存食のように思えるけれども、実は足の早い淡水鮮魚を少しずつ食べる工夫であり、家庭で作るもの。あるいは近所の魚屋が作ったものをちょこちょこ買って食べる・・・というようなものだったのかもしれない。
稲作が食の中心の日本ではその環境の中で淡水魚は身近なものであり、全国で相当な量が食べられていたはずである。マスメディアには出てこないけれども、たとえば農文協の『日本の食生活全集』(全50巻)などを見ると、それがよくわかる。
が、戦後の高度成長期から畜産が盛んになり、肉や卵が、そして遠洋の魚が安価に流通するようになると、淡水魚はかえりみられなくなった。
そして淡水魚の生きる環境にも無頓着になった。戦後の国是、米の増産によって干拓や基盤整備が広がり淡水魚の環境は悪化、加えてブラックバスやブルーギルなどの外来魚によって息の根を止められたのであった。
しかし、佐の富のおばさんによれば「外来魚の影響で鮒ずしに使うニゴロブナは一時は全く獲れませんでした。が、稚魚の放流や、外来魚の捕獲などで40%くらいは獲れるようになってきました」とのことである。
昼はレンコンと納豆。玄米の仕込みが遅れたのでイノチノイチの5分づきで。
夜は切り干し大根。5分づきで納豆をかきこみながら、わっしわっしと食べるより、玄米をゆっくり噛みながら食べる喜びのほうが上になってきた。これは自分の食遍歴のなかで驚くべき変化だ。アタマではなく舌と身体が喜んでいるのだ。
ただし無農薬玄米(天日干し)、塩・醤油などの調味料を厳選、陰陽の知識の習得、などなどハードルは高い。加えて、おかず類は野菜だし少なくて済むので調理時間は短いが、長く噛むので食事にかかるトータルな時間は通常のこれまでの食事と変わらない。
また、肉や鮮魚を買わなくなった分、野菜や調味料の厳選にけっこうお金がかかるので、金銭的には「やや安」という感じかな。しかし、台所は汚れないし臭くないので快適でストレスなし。
しかし玄米菜食に淡水小魚がちょこっと入るとビビッドさが加わってなかなか良い。食養的にも動物食の中では淡水小魚は推奨に値する(身土不二・全体食)のだし、たまに動物食を入れるのは栄養素の補填のためにもいい。
やはりそれには薪火(囲炉裏)がほしい。中学生のときだったか那珂川の清流でオイカワを毛針で釣り、河原で焼いて食べてみたことがあるのだが、臭みもなく美味しかったのを今でもよく覚えている。