龍馬記念館、いちじくジュース


前から気になっていたけどまだ行けてなかった高知県龍馬記念館。設計は高橋晶子(たかはし・あきこ、1958年 – )。竣工1991年、この建物のコンペには審査員に磯崎新がいて、日本建築家協会新人賞、高知市都市美デザイン賞をとっている。僕は東京在住で当時デザイン会社に潜り込んでバイトしながら版下技術を習得していた頃。建築雑誌でこの建物を見て「ひゃ〜新しいなぁ」と思って見ていた覚えがある。

ときに磯崎新が「水戸芸術館」通称ミトゲを作ったのが1990年。海外旅行で建築に目覚めた翌年に、実家のある水戸市の中心部に忽然と現れ、僕はここでビッグな現代美術のアート展を、帰省するたびに見ていた。

高橋晶子は篠原一男(しのはら・かずお、1925 – 2006)のアトリエにいた時代があり、この篠原さんてのは磯崎新と並んでメタボリズム後の日本建築界のリーダーで、特に1970年代以降の住宅建築デザインに多大な影響を与えたひと。伊東豊雄なんかもかなり影響を受けていて、隈研吾は篠原の「抽象的な空間」の継承者に安藤忠雄がいると述べている。

ところで龍馬記念館の展示で幕末の歴史を回顧していると、故郷の水戸のことを考えずにいられない。尊王攘夷派の中心であった水戸藩では、改革派の「天狗党」激派の一部が、後に尊王攘夷派を弾圧した開国派である井伊直弼を暗殺する「桜田門外の変」を引き起こす。

その後「天狗党」は筑波山で挙兵。攘夷の実行を直訴するために京都へ行軍する。が、慶喜の裏切りに遭い福井の敦賀で降伏。鰊蔵の獄門に閉じ込められるのである。安政の大獄で処刑されたのは8名だったが、水戸天狗党の乱では352名が死罪となった。

明治以降、水戸の歴史がパッとしないのは、幕末の動乱で優秀な人材を失っているからだと、今でこそ言う人は多い。明治維新の思想的な原点は水戸学であったにもかかわらず、明治新政府の要人には水戸藩出身者はゼロであったのだ。

こんな悲しい史実を、先人の思いと現在を、水戸で学んだ義務教育の中で、教育者の先生方の中から、私はたった一度も聞いたことがないし、当時の友人たちの話題に上ったこともない・・・。

高知名物アイスクリン食べてみた。が、これはちょっと変な甘さだった。ともあれ太平洋はいい。茨城の水戸生で育った僕は、父方の実家が久慈浜の海近くだった。夏の間の何度かこの荒波を見ないと身体がおかしくなってくるのだ(笑)。

イチジク、穫れすぎているので、この頃はこんなレシピを。

バナナと共に、牛乳とヨーグルトを入れてミキサーへ。これがなかなか美味しい。

ちなみにこのような大きなイチジクは関東では栽培できなくて、こちらに来て初めて食べた・・・と感想を言うと、香川の人はみな意外な顔をするのである。


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