朝食後、宿のおやじさんが朝市まで案内してくれるというので、宿泊者のほとんどが車で後をついていく。輪島塗のお店の駐車場に案内され、まずその中にある喫茶店でコーヒーを飲む。そこは、かなりハイテンションな店だった。店内がテーブルから壁から塗れるとことはすべて漆塗り。コーヒーの器もミルクピッチャーもシュガーポットもスプーンもすべて塗り物。そのデザインや完成度もすばらしいものに思えた。
店内の売り場を眺めた。箸の蒔絵が美しい。お椀を手にとってみると、硬くシャープなのに、吸い付くような、なんとも名状しがたい暖かみが伝わってくる。そのツヤの深みの質が、いままで見た漆器とちょっとちがうのだ、国産の漆だという。行程もすべて本物。が、値段はめちゃ高い。お椀ひとつが24,000円だった。
朝市へ向かった。観光客でいっぱいだった。売り子の客引きがけっこう強引だ。蒸しサザエや魚のぬか漬けに惹かれた。ここで見る塗り物はどうしようもなくC級品という感じだった。いくつか輪島塗の店にも入ってみた。しかし、最初に入った店ほどではなかった。高級感をあおるあまり、金の蒔絵をどぎつく使った成金趣味的なものになっているのだ。最初に入った店のは、蒔絵のデザインにも抑制が効いている。どうやら、僕らはのっけから最高級の店に入ってしまったようだ。
最初に見たお椀に吸い寄せられるような魔力を感じて、またその店に入っていろいろ説明を聞いた。木と漆という組み合わせは、最も太古からある完成された器のかたちである。僕らの深い記憶の底にある縄文的DNAをくすぐるのかもしれない。赤ちゃんに、金属、プラスチック、木など、様々な種類のスプーンを与えると、自ら漆器のスプーンを選んで舐めるのだそうだ。アトリエの内外装が落ち着いて、お金ができたら、あの器で朝食を迎えてみたいな。
値段は24000円だけど、これを10年使えば1年2,400円、補修しながら100年使えるなら1年240円だ(僕はあと数十年しか生きられないだろうけれども)。そんな連続性がなくなったことが、そもそもこの地球破壊の元凶なのだ。先の山本建造氏の著作によれば、もともと古神道とは、土地・国をつくってくれた先祖と、自然への感謝そのものであったという。「祈り」は祖先と自然に向けられたものだった。それが、いま神社ではわけのわからない神を祭り、ご利益信仰で商売している。お寺は葬式仏教で金が動いている。
そもそも、神のルーツなんかないのだ。先祖への感謝と僕らを養ってくれる自然への感謝があればいい。それは、この恵まれた国に生まれた、僕らのあたりまえの心情だ。いっぽう「道」は自分できりひらくのが当たり前だし、それでこそ人生の本質がつかめる。なんとシンプルで気持ちいい解釈だろう。
「さて、いよいよ帰還だね」カーナビを「自宅」にセットする。高速は使わず、すべて下道だ。走行距離は500km以上、到着時間は明け方の4時! と出た。Y先生やイタルさんも心配していることだろう。畑の草取りと、収穫が待っている。とにかくコペンは走る。